【外伝】陰陽師、山ノ井瑠衣 七話 〜遥とアカナメ、そして禁言の間〜
「あ゛ー、つかれたー。さっきからもう、なんなのよ。河童の次はアカナメ、一反木綿に唐傘お化けって! 有名な妖怪のオムニバスじゃない!」
遥は肩で息をしながら、ピコピコハンマーを杖のように床へついた。
ぴこん。
疲れているはずなのに、音だけはやたらと軽快だった。
「傘のお化けの傘を開いたら、まさかふんどしが出てくるとは思わなかった。目が腐るかと思った……」
瑠衣が無表情のまま言う。ただし目は遠くを見つめ、顔には縦線が深く入っている。
「ふんどし!? なんで!? 足一本しか生えてないじゃない!」
「片方の足は【4】の字に曲げられてた」
「そんな情報いらなかった!」
「しかも、ちょっと照れながら見せつけてきた」
「やめて!? 想像させないで!? そもそもなんで唐傘お化けの傘を開いてみようとか思ったのよ!?」
遥は両手で耳を塞いだ。
だが、塞いだところで一度脳内に浮かんでしまった映像は消えない。和傘。一本足。4の字。ふんどし。無駄に自信満々なポーズ。
「最悪……。日本妖怪、思ってたより最低……」
「鬼穴は人々の思念が生んでいるという説がある。昔の人の想像力は豊か」
「豊かさの方向性が嫌すぎる!」
その時、廊下の奥から、ぺた、ぺた、と濡れたような足音が聞こえた。
遥がびくりと肩を跳ねさせる。
「……まだ来るの?」
「来る」
「なんでそんな淡々としてるのよ!?」
「……慣れ?」
「!?」
闇の向こうから現れたのは、全身がぬらぬらと濡れた、小柄な老人のような妖怪だった。
手には桶。
口元には長い舌。
少し前に倒したアカナメは赤黒かったが、こちらはピンクの身体。
そして、目は妙に真剣だった。
「……ねえ、瑠衣」
「アカナメBが現れた」
「ドラ◯エみたいに言うのやめようか」
「たぶん二匹目、おそらく特殊個体」
「なんで群生してるのよ! それに特殊個体って……」
アカナメは、ぬるりと壁へ張りついた。
長い舌を伸ばし、壁の汚れを舐めはじめる。
ぺろり。
ぺろぺろ。
ぺろりんちょ。
「いや、普通に掃除してるだけじゃない?」
「鬼穴の穢れを舐め取っている。学校の用務員さんに近い存在」
「じゃあ特殊個体っていうのは悪い存在ではない?」
アカナメが、ゆっくりとこちらを向いた。
そして遥を見た。にんまり。
正確には、さっき河童や一反木綿との戦いで、あちこち汚れた遥の体操着を見た。
長い舌が、ぬらりと伸びる。
「……待って。なんか嫌な予感がする」
「はるちゃん、下がって」
「下がる! 全力で下がる!」
アカナメが床を蹴った。
見た目からは想像できない速度だった。
「うわっ!? 来た! 掃除目的の変態が来た!」
「掃除目的なら変態ではない」
「舐めようとしてる時点で変態よ!」
遥は半泣きでピコピコハンマーを振り下ろした。
ぴこん。
アカナメの頭に命中。
しかし、ぬるり、と滑った。
「効いてない!?」
「汚れの中でもピンクのカビを司る妖怪だから、打撃が滑る」
「お風呂場!?」
アカナメの舌が伸びる。
遥は紙一重で避けた。舌は背後の柱を舐め、柱にこびりついていた黒い染みが一瞬で消える。
「掃除能力、高っ!」
「一家に一匹欲しい」
「欲しくない! 絶対イヤ!」
瑠衣が床を蹴った。
トンファーを構えたまま、アカナメの側面へ回り込む。
「清掃は専門外」
「そうなの!?」
「うちは祓うほう」
瑠衣は懐から小さな札を取り出した。
墨で書かれていた文字は、遥にも読めた。
『混ぜるな危険』
「……それ、お札?」
「山ノ井家特製。汎用封鎖札」
「書いてあることが雑!」
「効けばいい」
札を、アカナメの額にぺたり。
「めっ」
瑠衣が静かに言った。
瞬間、アカナメの動きが止まった。
長い舌が、ぴんと伸びたまま固まる。
「効いた!?」
「効いた」
「今の『めっ』で!?」
「対象が小柄な老人型だったから」
「基準なに!?」
瑠衣は無言でトンファーを振り上げた。
ごん。
アカナメは白目を剥き、その場に崩れ落ちる。
遥はしばし沈黙した。
「……陰陽師って、思ってたより力技ね」
「力がないと札を貼れない」
「そういう意味じゃない!」
その直後だった。
廊下の奥の空気が、変わった。
さっきまでの騒がしさが、すっと引いていく。
河童の鳴き声も。
一反木綿が壁に叩きつけられた音も。
傘お化けの最低な記憶も。
全部が、遠ざかる。
「……瑠衣?」
遥の声が少しだけ細くなる。
瑠衣は答えなかった。
トンファーを構えたまま、闇の奥を見つめている。
廊下の先に、襖があった。
さっきまではなかったはずの襖だ。
古びた木枠。
黄ばんだ紙。
そこに、黒い墨で大きく文字が書かれていた。
『この先、口を開くな』
「……なに、あれ」
「禁言の間」
「きんごんのま?」
「声を奪う場所。しゃべると、持っていかれる」
「なにを?」
「声。名前。場合によっては、存在」
「急にガチホラーに戻すのやめて!?」
遥は思わず口元を押さえた。
さっきまでの妖怪オムニバスが嘘のように、背筋が冷たくなる。
ふざけてはいけない場所。
直感で、そうわかった。
瑠衣がそっと遥の手を取る。
「ここからは、わたしの後ろにいて」
「……うん」
遥は素直に頷いた。
その反応に、瑠衣がわずかに目を細くする。
「はるちゃんが素直で可愛い」
「今はツッコんだら負けな気がしたの!」
「賢明」
瑠衣は襖へ向かって歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
そして、襖の前で止まる。
遥も息を殺した。
瑠衣が右手の人差し指と中指を立てる。
声は出さない。
唇だけが、静かに動く。
——臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。
音のない九字。
空気だけが、ぴんと張った。
襖が、ひとりでに開く。
その奥は、部屋ではなかった。
どこまでも続く、暗い水面だった。
廊下の先に、黒い水が広がっている。
天井も、壁もない。
ただ、暗い水面の上に、細い板張りの道だけが続いていた。
その向こうに。
誰かが立っていた。
白い着物。
長い黒髪。
顔は見えない。
けれど、こちらを見ている。
見ていると、わかった。
妙齢の女性に見える。
遥は反射的に口を開きかけた。
瑠衣の手が、すぐに遥の口を塞ぐ。
言葉になりかけた息が、手のひらの中で消えた。
瑠衣は振り返らない。
ただ、空いた左手で、自分の唇に指を当てた。
静かに。
決して声を出すな、と。
遥はこくこくと頷いた。
瑠衣の手が、ゆっくり離れる。
その瞬間。
水面の向こうの女が、口を開いた。
声はない。
けれど、遥の頭の中に直接、言葉が響いた。
——あそびましょう。
遥は全力で首を横に振った。
無言で。
ものすごい勢いで。
その姿を横目に見た瑠衣が、少しだけ肩を震わせた。
笑うな。
今、笑うな。
遥は目だけでそう訴えた。
しかし瑠衣は、やっぱり少しだけ笑っていた。
鬼穴。
やはり、思っていたよりずっと最低で、そして少しずつ、本当に危険だった。




