小さな炎も空気を揺らす
やばい、ストックがなくなってきたヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3
黒姫の采配による最初の切り返しは、確かに戦場の空気をひっくり返した。
松栖流高校の長槍隊は一瞬だけ大きく揺らぎ、瀬戸際・尼剃根栖連合軍は、そこで初めてはっきりと押し返しに転じていた。
だが――全国二位の看板は、伊達ではなかった。
「前列、下がるな! 二列目、詰めろ!」
松栖流側の指揮が飛ぶ。
乱戦に持ち込まれ、遥によって真横に貫かれ、崩れかけた槍列は、乱れたまま潰れるのではなく、下がりながら整っていく。
突出した前列を引き戻し、その隙間へ後列がぴたりとはまり込む。乱れたはずの線が、わずか数呼吸のうちに再び一本へ戻っていく。もはや執念のように見えた。
左翼方向へと走り抜け、瑠衣の部隊のすぐ左隣、本陣から見て左翼の最も外側に並んだ遥が顔をしかめる。
「うっわ、立て直し早っ……!」
「嫌な相手ねー」
結女は口調こそ柔らかいままだったが、その目は笑っていなかった。
せっかく作った傷口が、もう閉じようとしている。
しかも今度の松栖流は、さっきより慎重だ。横断する一撃を食らったことで、前進の幅を抑え、隊列の噛み合わせを優先している。
鳴葉楓が前線で叫ぶ。
「黒姫ちゃん、この人たち真面目すぎるよー!」
結女は即座に盤面全体へと視線を走らせた。
狙い通りの乱戦。
右はさっきの差し込みで少し有利。
左はほぼ五分。
中央は、まだ重いままだ。
そして――そのさらに奥。
「……来る」
瑠衣がぽつりと呟いた。
それまで大きくは動いていなかった波理日本隊の本陣が、じわりと前へ出てきていた。
派手さはない。
いや、むしろ拍子抜けするほど地味だった。
二人騎馬が横へ長く並び、隙間なく、乱れなく、ただ静かに距離を詰めてくる。筋肉特戦隊のような暑苦しさもなければ、松栖流の長槍隊のような分かりやすい圧迫感とも少し違う。
だが、その“何の変哲もなさ”こそが不気味だった。
「うわ……」
遥が眉をひそめる。
「なんかあっちの方が逆にやだ……」
「普通に強そうなのが一番怖い」
郁佳も短く言った。
和音はその敵本陣を見つめたまま、低い声で呟く。
「波理日校長の本隊だ。あれは、変な癖がない。変な癖がないまま、全部が高水準なんだ」
「つまり?」
遥が聞き返す。
「真正面からやると、普通に強い」
「最悪じゃない……」
その通りだった。
結女はすぐに指示を飛ばす。
「郁ちゃん、前はそのまま維持。尼剃根栖の左は一歩だけ下げてー。はるちゃん、まだ我慢ー。瑠衣ちゃんは左側の尼剃根栖が下がった空間に牽制だけお願いー」
「了解」
「おーけー……」
「わかった」
返事は揃う。
だが、その中にひとつだけ、微妙に空気の沈んだ声が混ざっていた。
「……ああ」
よしおだった。
和音がちらりと横目で見る。
よしおは中間支援位置に立っている。前線と後方を繋ぎ、結女の指示を拾って各部へ流し、穴が開けば即座に埋める役目だ。派手ではないが、重要度は高い。
にもかかわらず、今日は明らかに反応が鈍い。
「田中君、左へ合図を」
「あ……ああ」
一拍遅れて、よしおが声を飛ばす。
その一拍が、今の戦場ではじわりと重い。
前線左寄りで、郁佳が一瞬だけ顔をしかめた。
「左、遅い!」
「ご、ごめん!」
よしおが歯噛みする。
視界の端に、和音の横顔が入る。
冷静で、余裕があって、いつも通り盤面を見ている横顔だ。
その顔が、あの写真の中の笑みと重なった。
巨大な白い綿菓子。
近すぎる距離。
自然な表情。
あまりにも、自然すぎた二人。
「……っ」
よしおは無意識に唇を噛んだ。
何でもない。
今は試合中だ。
集中しろ。
頭ではそう分かっている。
なのに、視線がどうしても和音を追ってしまう。
「田中君!」
和音の声に、よしおははっと顔を上げた。
「右後方、郁佳さんの支援へ! 今!」
「あ、ああっ!」
慌てて走る。
遅い。自分でも分かる。
その遅れが、前線の呼吸をほんの少しだけ乱す。
結女の目が、すっと細まった。
「……よしお君」
小さく呟く。
盤面と同時に、味方の状態も見ている結女にとって、そのズレはもう見逃せる大きさではなかった。
だが今は、問いただしている暇はない。
前線では、立て直した松栖流が再び打ち下ろしの圧を強めていた。そこへ波理日本隊の二人騎馬が、静かに、しかし確実に横から食い込み始める。
「来たわよー! 郁ちゃん、右寄り注意!」
「了解!」
郁佳が返した直後、波理日本隊の一騎がするりと前へ出た。
速い。
派手な踏み込みではない。
無駄のない、熟練の武術家のような踏み込みだった。
そこから放たれた一撃は、松栖流の長槍ほど重くはない。
だが、驚くほど正確だった。
「っ!」
瀬戸際側の歩兵が受ける。が、弾かれた数人が体勢を崩し、前線に穴が開きかける。そこへ間を置かず、波理日がもう一騎、滑り込む。追撃!
「ぐあっ!」
瀬戸際の一騎からローションが弾ける。
「連携……!」
和音が顔を上げた。
「松栖流の圧で正面を縛って、波理日の二人騎馬で横から崩す気だ!」
「わかってるわー!」
結女は即答した。
「郁ちゃん、受ける角度を少し右へ! 左は尼剃根栖に寄せる! 鳴葉さん、右へもう二歩!」
「了解だよーっ!」
鳴葉が駆ける。
その後ろで吉津涼香も、真面目そのものの顔で槍を構え直した。
「御手洗お姉さまの未来は、私が守ります」
「重いのよー!」
遥のツッコミが飛ぶ。
だが、その重さは今、頼もしかった。
前線は再び拮抗する。
押される。押し返す。
綻びかける。埋める。
その繰り返しだ。
結女は盤面の一点一点を見ながら、それでもなお、別の一点を気にしていた。
よしおだ。
動けていないわけではない。
だが、反応が半拍遅れる。
視線が揺れる。
どこか一点に集中し切れていない。
そして、その視線の先にいるのが誰かも、結女にはもう見えていた。
「……そういうことー」
小さく、冷たい声が漏れる。
あの闇討ちといい、このタイミングといい。
盤外から崩しに来ている。
波理日校長らしい、ひどくいやらしいやり方だった。
結女の視線が敵陣最奥を射抜く。
波理日校長がうっとりと笑っていた。
「んふふふふ❤ いいわねぇ、いいわねぇ❤」
大殿欣二が一礼する。
「よしお君、しっかり効いているようですわねぇ❤」
「恋する子っていうのは、ほんと可愛いわぁん❤」
波理日校長は、頬に手を添えた。
「盤面を崩すのに、真正面からぶつかる必要なんてないのよぉん❤ 心を揺らせば、手元も足元も勝手に狂うものぉ❤」
その笑みはチョコレートのように甘ったるい。
ただしそのチョコレートにはもっさりと毛が生えている……。
その実態はどこまでも悪辣だった。
前線ではなおも、郁佳が必死に防衛線を保っている。
「前、下がらない! まだいける! まだ受け切れる!」
その声に、瀬戸際側は踏みとどまる。
けれど、均衡は少しずつ、少しずつ削られていた。
そして何より危ういのは、その均衡のほころびが、敵の槍や剣だけではなく、味方の心の揺れからも生まれ始めていることだった。
結女は静かに息を吐く。
盤面はまだ壊れていない。
なら、壊れる前に手を打つしかない。
黒姫の目が、次の一手を探るようにすっと細くなった。
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