〈閑話7〉郁佳と靴箱
郁佳の回(´・∀・`)
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
窓の外では、傾きかけた日差しが校庭の端を斜めに照らしている。部活帰りの生徒たちの声も、ここまで来るとずいぶん遠い。
郁佳は、いつものように下駄箱へ向かっていた。
今日は少し疲れた。
騎士部の後片付けをして、結女の作戦メモに付き合い、遥の勢いだけで成立しそうな突撃案を現実的な形に修正して、ついでに瑠衣の「今日は三十人くらいなら切り落とせそう」という独り言に対して、流していいのか止めるべきなのか、一瞬だけ本気で悩んだ。
どう考えても、僕の高校生活はもう少し穏やかであるべきだと思う。
そんなことを考えながら、自分の靴箱を開けた、その時だった。
ぱさっ。
「……ん?」
白い封筒が一通、足元に落ちた。
郁佳はしゃがみ込み、それを拾い上げる。表には、丁寧な字でこう書かれていた。
『長谷部郁佳様』
「……僕?」
思わず、周囲を見回した。
誰もいない。
人の気配もない。
嫌な予感がした。
ラブレター、という単語が一瞬だけ脳裏をよぎる。だが同時に、そんな甘酸っぱい可能性を素直に信じていいほど、自分の学校生活は平和ではないとも思った。
とりあえず封を切る。
中の紙を開く。
『踏んでください』
「……」
目が遠くなる。郁佳は、しばらくその文字列を見つめた。
顔には縦線が入る。
イミガワカラナイ。
いや、日本語としてはわかる。わかるけれども、なぜ僕の靴箱にこの要望が入っているのかが、まったくわからない。
心を無にして折り畳む。見なかったことにした。
深呼吸して、靴を取り出そうとする。
その時だった。
靴箱の中に、まだ白いものが見えた。
「……まだ、あるのかい?」
また顔に縦線が入る。
嫌な予感が、少しずつ確信へ変わっていく。
二通目を開く。
『できれば蹴り上げてください』
「悪化してるんだけど!?」
今度は素で声が出た。この世界はツッコミ待ちなのだろうか?
踏んでほしいから蹴り上げてほしいへ。
この短時間で、何がどう進化したのか。というか、同一人物なのか別人なのか、それすらわからない。
「なんで一通目より具体的になってるんだよ……」
額を押さえる。縦線は濃さを増す。
けれど現実は、まだ止まらなかった。
三通目。
もう無の境地である。
『あなたの椅子になりたいです』
「なんで!?」
反射だった。反射的にツッコミが口から出た。
「いや、どこをどうしたらその結論に至るんだ!? せめて人間のままでいてくれ!」
言い終わってから、僕は何に対して説得を試みているんだ、と少し悲しくなった。
放課後の下駄箱の前で、椅子志願者に説教している男装の女子高生。
字面にすると、あまりにもひどい。
郁佳は一度天井を見上げ、それから疲れた目で靴箱の中を覗き込んだ。
「……まだ、ある」
もう嫌だった。
でもここまで来たら、最後まで確認しない方が気持ち悪い。
四通目を開く。
『初めてお見かけした時から、ずっと好きでした。よろしければ、お返事をいただけませんか』
「……あ、急に普通のが来た」
郁佳は思わず、持ち方を改めた。
字が綺麗だ。
文面も丁寧だ。
ここまでの流れがあまりにもあまりだったせいで、逆にこの一通がやけに眩しく見える。
ちゃんとした手紙、というだけで少し安心している自分が悔しい。
「ええと、差出人は……」
視線を最後の一行へ落とす。
『伊集院よしこ』
「……」
しばらく沈黙した。
縦線は一本の黒い棒になる。
「……僕、女なんだけど」
静かな廊下に、自分の声だけがぼそりと落ちる。
いや、見た目の印象で勘違いされることはある。
そこはもう、今さらだ。
でも、好きになる前に最低限の確認はしてほしかった。
それにしても、伊集院よしこ。
名前が強い。
伊集院で一度、すっと背筋の伸びるような気品を感じさせておいて、よしこで急に親しみが出る。絶妙に忘れがたい。
「……いや、そこじゃない」
思考が変な方向へ逸れ始めているのを自覚しながら、郁佳はさらに手を伸ばした。
五通目。
「……」
心なしか封を切る音が大きい。
『結女さんとどうすればお近づきになれますか?』
「僕を何だと思ってるんだ……?」
遠い目になった。
なぜ結女への恋愛相談が僕の靴箱に入っているのか。
結女と仲がいいという認識は、まあわかる。だが、それを理由に恋の相談窓口にされる筋合いはない。
しかも文章から滲み出る切実さが妙に重い。ふざけているのか、本気なのか、判断に困る。
「本当に何なんだ、今日は……」
郁佳はもう最後であってほしいと願いながら、次の封筒を開いた。
さっきの勢いはもうない。
『長谷部さんへ
結女さんの好みとか、好きな男のタイプとか、さりげなく聞いといてもらえませんか。
あと好きな食べ物とか、休みの日に何してるかとか、俺様でもいけそうかどうかも。
できれば急ぎでお願いします。
田中よしお』
「急ぎでお願いします、じゃないんだよ……」
心の底から疲れた声が出た。
筆跡はどこかせわしない。
文章も雑だ。
でも、そのわりに本気なのは伝わる。とくに“俺様でもいけそうかどうか”の一文が生々しい。自信と不安がひどい形で同居していた。
「自分で聞きなよ……。なんで僕経由なんだ……」
「なにしてるの、郁ちゃん」
不意に後ろから声がして、郁佳はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、瑠衣が立っていた。
無表情。
いつも通り。
でも、少しだけ目に興味がある。
「瑠衣……」
「靴箱の前で止まってる。珍しい」
「……僕は今、この学校で日本の終わりを見た気がするよ」
「へえ」
瑠衣の視線が、郁佳の手元の手紙束へ落ちる。
「見せて」
「嫌だよ」
「だいたい予想はつく」
「なんで予想がつくのさ」
「郁ちゃん、人気あるから」
「人気の方向性がおかしいんだよ!」
郁佳は思わず言い返した。
瑠衣は首を少し傾ける。
「踏んでください、とか?」
「当たってるのが嫌なんだけど!?」
「蹴り上げてください」
「それもある!」
「椅子になりたい」
「なんで全部わかるのさ!?」
瑠衣は少しだけ考えた。
「定番」
「そんな定番があってたまるか」
郁佳は深々と息を吐く。
「しかも普通のラブレターまで混ざってたんだよ。差出人、伊集院よしこさん」
「強い名前」
「だろう?」
「で?」
「で、って?」
「郁ちゃん、どうするの」
「どうもしないよ!」
「そこはそう」
「そこ“は”って何?」
瑠衣は郁佳の手から一枚抜き取った。
「あ」
「読む」
「もう勝手にして……」
瑠衣はさらりと目を通し、相変わらず無表情のまま言った。
「……田中よしお」
「そうなんだよ」
「結女ちゃんの恋愛相談」
「なんで僕経由なのか、本当にわからない」
「妥当な判断」
「どこが!?」
「郁ちゃん、結女ちゃんと仲いい」
「だからって恋の橋渡し役にするのは違うだろう!?」
瑠衣は少しだけ考える顔をした。
「でも、回答はちょっと気になる」
「気になるの!?」
「結女ちゃんの好み」
「瑠衣まで何を言い出すんだい……」
「なにしてるのー?」
ふわりとした声が割って入る。
郁佳は嫌な予感しかしなかった。
案の定、そこにいたのは結女だった。
「みんな靴箱の前で集まって、どうしたのかしらー?」
「いや、これはその……」
「郁ちゃんの靴箱、相談箱になってた」
「ちょっと瑠衣!?」
瑠衣は一切悪びれない。
結女は、面白そうに目を細めた。
「相談箱ー?」
「踏んでください、とか、蹴り上げてください、とか、椅子になりたい、とか」
「読み上げないでくれないかな!?」
結女の肩が震える。
「……ふふっ、ふふふふっ」
「笑わないで」
「ごめんなさいー。でもー、郁ちゃんって、そういう需要ありそうだものー」
「あってたまるか!」
瑠衣が、よしおの手紙を差し出す。
「あと、これ」
「んー?」
「結女ちゃん宛の実質相談」
「えー?」
結女は手紙を受け取り、ひらりと広げた。
『結女さんの好みとか、好きな男のタイプとか――』
「あらー」
「だろう?」
「よしお君、頑張ってるわねー」
「そこ感心するところなの!?」
「でもー、郁ちゃんの靴箱に入れるのはどうかと思うわー」
「本当にそうだよ!」
結女はくすくす笑いながら、手紙を丁寧に畳んだ。
「じゃあ、これは私が預かっておくわねー」
「え?」
「返事、してあげた方がいいものー」
「本人に言えばいいだろう?」
「だって面白……こほん。かわいそうじゃなーい?」
「今、“面白”って言いかけたよね」
結女はにっこり笑った。
「気のせいよー」
絶対に気のせいではない。
郁佳が何も言えずにいると、瑠衣がぽつりと呟いた。
「郁ちゃん、人気者」
「嬉しくないよ……」
「でも、ちょっと面白かった」
「瑠衣まで……」
「うふふふふー」
結女の笑い声が、下校後の静かな廊下にやわらかく響く。
郁佳は小さく天を仰いだ。
たぶん。
たぶんだけれど。
僕の高校生活は、しばらく平穏とは縁がない。
そんな気が、ひどくした。
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