第65話 妻の計算が勝った
ヴォルダ公国からの最終回答が届いたのは、使者が帰ってから三日後のことだった。
「農産物の供給協定については、辺境侯爵領の任意とする。防衛協定は現状維持。以上の条件をもって折衝終了としたい」
エドヴァルドがその書状を読んで、カルルに回した。
「……大幅な後退です」とカルルが言った。「事実上、要求の撤回ですね」
「そうだ」
短い言葉だった。でもカルルには分かった。「勝った」という意味だ。
* * *
重臣会議が開かれた。ガストン、カルル、オルセン、財務担当のベルネ、城下管理官のハルネット。全員が集まった。
「ヴォルダとの外交折衝が決着した。要求は実質的に全て撤回された」とエドヴァルドが言った。
重臣たちが顔を見合わせた。
「今回の交渉が有利に進んだ主な理由は、兵站計算の精度が交渉材料として機能したためだ」
エドヴァルドが続けた。
「その計算を行ったのは、妻であるレティシア夫人だ」
部屋が静かになった。
「夫人が……」とオルセンが言った。軍務担当の、普段は口数の少ない男だった。
「兵站の計算は、俺たちでは追いつかない部分があった。夫人が、前提条件の変化に対応した精密な計算書を作成した。その計算書があったからこそ、交渉の場で相手を動かすことができた」
室内が静かだった。
「……夫人の計算で、戦争が回避できたということですか」とガストンが言った。
「そういうことだ」
* * *
私はその後、カルルから報告を受けた。
「重臣会議で、侯爵が夫人の功績を正式に公言されました」
「……そうですか」
「「夫人の計算が交渉を動かした」と。オルセン将軍も驚いていました」
私は少し間を置いた。
私の計算が、戦争を回避した。大げさな言い方だと思うが、それが事実だ。ヴォルダが要求を撤回した理由に、私の数字がある。
「……よかったです」
声が、少し違った。前世で「仕事が終わった」と感じる時の安堵とは違う。誰かの役に立った、という喜びが混じっていた。
* * *
夕方、エドヴァルドが部屋に来た。
「ありがとう」
三度目だった。
今度は「いただきます」と言う前に、自然に「こちらこそ」が出た。
「功績を公言してくださってありがとうございます。重臣の方々に」
「当然のことをした」
「当然ではないと思います。でも……ありがたかったです」
エドヴァルドが少し黙った。窓の外を見た。
「重臣を集めた場で、改めて話したいことがある」と言った。
「……何を、ですか」
「あなたのことだ」
私は少し止まった。「あなたのこと」という言葉が、仕事の評価とは少し違う質を帯びていた。
「どういう意味ですか」
「明日、分かる」
それだけ言って、エドヴァルドが出ていった。
廊下に足音が消えてから、私は少し考えた。
——あなたのこと。




