第52話 届かない声
翌日、エドヴァルドは廊下でレティシアを見かけた。
薬品庫から出てきたところだった。書類を抱えて、足早に歩いている。こちらに気づいていない。
「レティシア」
声をかけようとした、その直前。
「侯爵、失礼します。オルセン将軍がお待ちです」
カルルが横から来た。
エドヴァルドが振り返った。「今行く」と言った。廊下の先でレティシアがもう角を曲がっていた。
* * *
二日後の午後、書斎に一人でいる時間があった。珍しく、報告が途切れた時間だった。
夕食を一緒に、と伝えようとして——そう思い立った。ミレイを通じて伝えれば。それだけのことだ。
書こうとして、カルルが来た。
「国境の見張りの配置を変えたいという将軍の意向で、確認をお願いしたいと」
「今か」
「できれば今日中に」
エドヴァルドが立ち上がった。
* * *
その夕方、レティシアが書斎に資料を届けに来た。
部屋には誰もいなかった。会議中だろうと判断して、机の上の定位置に書類を整然と置いた。余白に「内務物資の第二報告書、提出いたします」と短く記した。
それだけで部屋を出た。
時間を使わせてはいけない。仕事として必要な資料は届ける。でも顔を合わせて話す時間を取らせることはしない。
廊下を歩きながら、少し考えた。
こういうやり方は、前世でもしていた。チームの会議に必要な数字だけ出して、会話には加わらない。存在を消すように働いて、でも仕事は続けていた。
役に立てる仕事だけして、出過ぎない。
それで良かった。そうすることで、いられた。
* * *
会議が終わって書斎に戻ったエドヴァルドは、机の上に資料が置かれているのを見た。
整然とした置き方だった。余白に走り書きではなく、丁寧な字で短い説明がある。
「……来たのか」
小さく呟いた。
誰もいない。
来て、置いて、去った。声をかけずに。
エドヴァルドはしばらく資料を見た。届けに来てくれた。仕事はしてくれている。でも——声がない。
なぜ私は声をかけられないのか。
簡単なことだ。「今夜一緒に食事を」と言えばいい。それだけのことだ。なぜそれが——。
その問いに答えが出る前に、扉が叩かれた。
「侯爵、報告書が届きました」とカルルが言った。「国境からです」
「入れ」
カルルが入ってきて、書状を差し出した。エドヴァルドが受け取った。
読んで、少し目が止まった。
「……兵を集めている?」
「はい。ヴォルダ公国が国境付近に、明らかな軍事的意図のある配置で兵を動かしているとのことです」
エドヴァルドの表情が変わった。
「重臣を集めろ。今夜、会議だ」
「かしこまりました」
カルルが出ていった。
机の上に、レティシアが届けた資料が残っていた。エドヴァルドはそれを引き出しに入れた。外の問題が、本格的に動き始めた。




