第50話 ヴォルダの影
ある朝、エドヴァルドが重臣を集めた。私も呼ばれた。
執務室に、ガストン、カルル、軍務担当のオルセン、それと私が集まった。
「ヴォルダ公国の動きを報告する」
エドヴァルドが地図を広げた。辺境の東、山岳地帯の向こうにある小国だ。
「国境付近で、偵察と思われる動きが三週間前から確認されている。規模はまだ小さいが、パターンが変わった」
「……戦闘になりますか」とオルセンが聞いた。
「今すぐではない。だが対応は必要だ。国境の警戒を強める。兵の配置を見直す。それと物資の備蓄の確認も」
エドヴァルドが私を見た。
「内務側の物資の見通しを出してほしい。早めに」
「承知しました」
会議が終わって、廊下に出た。
戦争、という言葉が頭の中にあった。今すぐではない、とエドヴァルドは言った。でも「今すぐではない」ということは「いずれあるかもしれない」という意味でもある。
* * *
その日から、エドヴァルドは軍務に忙しくなった。
朝から兵との打ち合わせ。午後は国境付近の報告の確認。夜は軍の配置の見直し。
一緒に昼食をとる時間は、なくなった。
「夫人、最近侯爵様とあまり会えていないですね」とミレイが言った。
「忙しい時期だから」と私は答えた。「邪魔にならないほうがいい」
「でも、物資の見通しは頼まれたんですよね? それを持っていくときに会えるじゃないですか」
「書類だけ届ければいい。話が必要なときはカルルを通じて確認する」
「……夫人」
ミレイが少し困った顔をした。
「なんですか」
「引いてますよね、夫人」
私は手帳を閉じた。
「引いているというより」と言った。「それが適切だと思っています。エドヴァルドには今、対処しなければならないことがあります。私の用件は急がなくていい」
「……でも、前は自分から書類を届けに行ってましたよね」
「前は、必要があった」
「今も必要ありますよ」
「今は、別の形で済む」
ミレイが何か言おうとして、止まった。
* * *
実際、距離を置いた方が楽だった。
近づきすぎると——怖い。うまく言えないが、怖い。何かを期待してしまう。何かを失うことへの怖さが、近づけば近づくほど大きくなる。
仕事のパートナーとして、必要な人間として、それで十分なはずだ。
「遠くなった気がする」
独り言が出た。それを認識して、私は少し止まった。
遠くなった、と感じているということは——近かったということだ。
「……仕事に集中しよう」
帳簿を開いた。
* * *
カルルがエドヴァルドに報告したのは、その翌日だった。
「侯爵、夫人が最近、少し距離を置いているようです」
「……分かっている」
「気づいていたんですか」
「書類の届け方が変わった。以前は自分で来ていたが、今は使用人を通じてくる」
カルルが「なるほど」と言った。
「邪魔にならないようにしている、と思っているのだろうな、あの人は」
「どうされますか」
エドヴァルドが少し黙った。その夜、国境からの追加報告が届くことになっていた。やるべきことがある。
「……今は軍務を優先する」
それだけ言った。でも、その後に短い沈黙があった。




