最終話 種も仕掛けもございます
最終話は、二人の愛が深まる情熱的な描写を含みます。苦手な方はご注意ください(ですが、載淵の本性が暴かれる重要なシーンでもあります)。
後宮の夜は、どこまでも深く、そして静かだ。
かつて怨嗟と陰謀が渦巻いていたこの場所も、今では蘭瑛が仕掛ける「驚き」と、それに翻弄される親王・載淵の溜息が混じる、不思議な安らぎの場へと変わっていた。
二人は、月を望む高い楼閣の縁に並んで座っていた。
かつて父、蘭鳳が命を賭して守ったこの景色を、蘭瑛は今、最も愛する男と共に眺めている。
「……蘭瑛。貴様、また何か仕込んだな」
載淵が、不意に自分の左手を見つめて眉を寄せた。
彼の薬指には、あの日蘭瑛に贈ったものと同じ意匠の、一対となる銀の指輪が嵌まっていたはずだった。だが、彼がふと目を離した一瞬の隙に、指の感触が消えている。
「あら、何のことでしょう?」
蘭瑛は、月明かりを浴びて、いたずらっぽく微笑んだ。彼女の手は、膝の上で上品に重ねられたままだ。袖の中に隠した様子も、地面に落とした音もしなかった。
「……計算に合わん。私は貴様の手の動きを、一秒たりとも見逃さなかったはずだ。光の屈折を利用した隠れ蓑か? それとも、極細の糸による遠隔操作か?」
載淵は、隣に座る蘭瑛の顔を覗き込み、その理知的な瞳で彼女を「解析」しようと試みる。
だが、蘭瑛は楽しげに首を傾げるだけだ。
「さあ? 物理の法則を疑うか、それともご自分の目を疑うか……。数学者である載淵様なら、どちらを選びます?」
「……フン。貴様という存在自体が、物理法則の例外のようなものだからな」
載淵は苦笑し、彼女の細い肩に腕を回した。
知恵を競い、驚きを贈り合う。これこそが、二人の愛の交歓だった。
「載淵様。お父さんはよく言っていました。……『最高の手品とは、タネが明かされないことではない。タネなどないと信じ込ませることでもない。観客が、一生その謎を抱えていたいと願うことだ』と」
蘭瑛は、空いた載淵の手をそっと取り、自分の唇へと引き寄せた。
そして、彼の指先にふわりと息を吹きかける。
――カラン。
次の瞬間、何もないはずの彼の薬指に、銀の重みが戻ってきた。月の光を浴びて、紅玉が深紅の閃光を放つ。
「なっ……」
「タネは、内緒ですわ」
蘭瑛は鈴を転がすような声で笑った。だが、その余裕は長くは続かなかった。
「……一生、解けそうにないな。このミステリーだけは。ならば蘭瑛、一つ提案がある」
載淵は不意に立ち上がり、楼閣の下、並み居る近衛兵や宦官たちの前へと蘭瑛を導いた。
ざわつく周囲を冷徹な眼差し一つで黙らせると、彼は蘭瑛の肩を抱き寄せ、朗々と、だが逃げ場を許さない重圧を持って宣言した。
「諸官に告ぐ。私はこの女の知恵を、血を、我が一族の歴史に永久に刻むことに決めた。……蘭瑛、私は貴様の腹に、我が子を宿らせたい。貴様のその稀代の頭脳と、私への愛が混じり合った証を、今すぐにでもその身に孕ませたいのだ」
静寂が場を包み、次の瞬間、近衛兵たちが一斉に顔を伏せ、宦官たちは驚愕に声を漏らして震えた。
公衆の面前で「孕ませたい」などという、あまりにも生々しく、剥き出しの本能を言葉にするなど、正気の沙汰ではない。
「……っ!? な、な、載淵様……っ!? な、なんてことを、そんな、直接的な……っ!」
蘭瑛の顔は、耳の裏まで真っ赤に染まった。あまりの羞恥に膝が震え、彼女は己の袖で顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになる。
「……ふむ。計算通り、面白い反応だ。だが、今の言葉に一切の嘘はない」
載淵は、羞恥に震える蘭瑛の腰を強引に抱き上げると、耳元で低く、熱い吐息を吹きかけた。
「……これだけの証人の前で宣言したのだ。今夜から、貴様を一時も解放せぬ口実としては十分だろう?」
彼は蘭瑛を横抱きにすると、背後の寝所へと乱暴に連れ込んだ。
下ろされた薄絹の帳の向こう側で、載淵は蘭瑛を手首ごと寝台に押し留めた。
いつもなら数式のように冷徹な彼の瞳が、今は蘭瑛を跡形もなく飲み込もうとする、どろりと濁った剥き出しの情欲に支配されている。
「……っ、載淵様、そんな、強引な……」
「……嫌か?」
低く掠れた声で問われ、蘭瑛は力なく首を振った。
嫌なはずがない。ただ、彼の熱に、輪郭が溶けてしまいそうなのが恐ろしいだけだ。
「そうか、わかった。……貴様という謎に、私の理性がどれほど焼き切られたか……その身に教えてやる。今夜は、泣いて許しを請うても離さんぞ」
逃げ場を奪う彼の質量。衣を割る音。うなじに刻まれる、熱く、痛いほどの吸痕。
蘭瑛は、男としての本能を剥き出しにした彼の「愛の暴力」に翻弄されながら、溶けるような熱の中で、敗北という名の救済に酔いしれた。
――その時。
固く閉ざされた寝所の扉の外。物陰に身を潜めた小翠は、極限まで顔を真っ赤に染め、自身の口を両手で必死に押さえていた。
(……ちょっと。ちょっとちょっと! 聞こえてる、丸聞こえですってば……っ!)
見つかってはならないという緊張感。だが、扉の向こうから漏れ出る重い衣の擦れる音や、蘭瑛の熱を帯びた吐息、そしてあの冷徹な載淵様が放つ、低く獣じみた掠れ声――。
小翠は、恥ずかしさで爆発しそうになりながらも、無意識のうちに壁に耳を寄せていた。
(蘭瑛様……あんな声で鳴くなんて……。載淵様も、理屈屋の皮を脱いだらこんなに凄いの!? 嫌だ、私までどうにかなりそう……でも、でも……気になる……っ!)
羞恥心と、親友の「初めて」を見守りたい(?)という不可解な好奇心が激しく火花を散らす。小翠は、悶々と身悶えしながら、熱気に当てられた自身の火照った頬を何度も手で仰いだ。
壁一枚向こう側で繰り広げられる、知性など微塵も感じさせない本能の交歓。小翠は、罪悪感と興奮に苛まれながら、ただひたすらに、嵐のような夜の行方から耳を離せずにいた。
やがて、深い静寂が寝所を包む。
蘭瑛は乱れた髪をそのままに、載淵の胸元に顔を埋め、悪戯っぽく、けれど震える声で囁いた。
「――もちろん、これらすべてに……種も、仕掛けも……ございますわよ, ね?」
だが、事後の余熱を帯びた載淵の瞳が、再びギラリと獲物を狙う光を宿す。
「種も仕掛けも……か? なるほど、先ほどのはまだ『しかけた(途中で中途半端な状態)』に過ぎなかったというわけだな。……いいだろう、『タネ』はこれからだ」
「ちょ、ちょっと待ってください! いろいろと意味が違いますわーっ!」
廊下でようやく壁から耳を離し、酸欠気味の深呼吸をしていた小翠の肩が、再び聞こえてきた蘭瑛の悲鳴に近い抗議に、ビクンと跳ねた。
(……ええっ!? 今のでまだ『しかけた』だけ!? 載淵様、どんだけ体力あるのよ……っ。ああもう、これじゃ私、夜が明けるまで一歩もここから動けないじゃない……!)
小翠は絶望と期待が入り混じった複雑な表情で天を仰いだ。
蘭瑛の叫びも、再び重なった彼の唇によって、甘く、深い夜の闇へと飲み込まれていった。
(完)
※本作はここで『完結』になります。
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