第45話 マジシャンの休息
嵐のような万寿節が過ぎ去り、後宮には本来の、どこか停滞したような穏やかな時間が戻っていた。
だが、その一角にある蘭瑛の居室だけは、相変わらず「平和」の定義が少し違っていた。
「……だから蘭瑛! それは陛下から賜った最高級の茶葉であって、燻蒸実験の燃料じゃないって言ってるでしょ!」
小翠の鋭いツッコミが、初夏の風に乗って中庭に響く。
蘭瑛は、麗妃から贈られた鳳凰の刺繍入りの敷物の上に、あろうことか複雑な管を取り付けたフラスコや、煤けた試験管を所狭しと並べていた。
「いいのよ小翠。この茶葉に含まれる精油成分が、特定の気圧下でどう揮発するかを知りたいの。これが解明できれば、次の演目で『消える花から、一瞬で桃の香りを漂わせる』ことが可能になるわ。これぞ、嗅覚のミステリー……あら、沸騰したわ。今よ!」
シュンシュンと音を立てる奇妙な装置を前に、蘭瑛は楽しげに笑う。
地下牢で泥にまみれ、ガラクタを弄っていた時と変わらぬ情熱。だが、今の彼女には、その実験を呆れながらも笑って見守る友がおり、そして――その「奇行」を、惜しみない財力と知恵で肯定する最強の理解者がいた。
「蘭瑛、息災か。……今日は西域の商団から、屈折率が極めて安定した『大理石の薄片』と、新しい光学理論が記された写本を取り寄せた。貴様の新作の構想に役立つと思ってな」
回廊を歩いてきたのは、親王、載淵だ。
彼は既に、朝廷での重苦しい政務を「蘭瑛に会う」という唯一の目的のために、通常の倍の速さで片付けてきたところだった。手に持っているのは、愛を囁く花束などではなく、蘭瑛が喉から手が出るほど欲しがる「希少な物理素材」と「難解な数理書」の山である。
「まあ、載淵様! さすが話が早いわ。ちょうど光の全反射を利用した『消える箱』の二号機を作ろうと思っていたところなんです!」
蘭瑛が目を輝かせて駆け寄ると、載淵は満足げに、そして愛おしそうに目を細めた。
彼は蘭瑛の肩にそっと手を置く。その距離感は以前よりもずっと近く、周囲の女官たちが「まあ、あんなに堂々と……」と袖で顔を隠して通り過ぎるほどだ。
「あまり根を詰めすぎるな。……貴様がその奇妙な実験に没頭しすぎて、私を視界から消してしまうのが、今の私にとって最大の恐怖なのだからな」
「あら、載淵様。私をそんなに薄情なマジシャンだと思ってらして? 貴方は私の人生における『最も重要な観客』ですもの、見失うはずがありませんわ」
蘭瑛はくすくすと笑いながら、彼の過保護なまでの溺愛をさらりといなす。
載淵は彼女のそんな「かわし方」にさえ、心地よい敗北感を感じていた。彼は、世界中の数学者が解けなかった難問を解くよりも、蘭瑛が時折見せる「ただの少女」の顔を自分だけが引き出すことに、何よりも執着していた。
「……蘭瑛、今夜は少し時間が取れる。新しく手に入れた数理モデルの解法について、二人で検証しないか?」
「ええ、喜んで! でもその前に、この特製のお茶を飲んでくださいな。気圧制御で完璧に抽出した、名付けて『物理学者の休息』ですわ」
蘭瑛が差し出した、どこか理科の実験器具に似た器を受け取り、載淵は苦笑しながら口をつける。
小翠が遠くで「はいはい、ご馳走様。愛だねぇ」と呆れたように自分の茶を啜る中、蘭瑛は載淵の隣で、新作のギミックについて熱っぽく語り始めた。
かつては復讐と生き残りのために振るっていた知恵が、今は誰かを驚かせ、隣にいる男を微笑ませるために使われている。
蘭瑛は、載淵が持ってきた大理石を太陽にかざした。
透き通るような白の中に、七色の虹が踊る。
「……載淵様。私、次の演目では、この宮中全体を『虹の海』に変えてみせますわ」
「ああ、期待している。……だが、その前に一つだけ約束しろ。その虹の中に、私を置き去りにはするなよ」
蘭瑛は彼の大きな手に、自分の細い指を重ねた。
それは、どんなマジックのタネよりも温かく、確かな幸せという名の「現実」がそこにあることを教えてくれていた。




