第44話 載淵の再求婚
宮中の騒乱が嘘のように静まり返った、月明かりの夜。
後宮の端にある、ひっそりとした東屋に、蘭瑛は呼び出されていた。皇帝からの「国師」の座を蹴り、名もなき奇術師として生きる道を選んだ彼女の表情は、どこか吹っ切れたような清々しさに満ちている。
そこに、一人の男が歩み寄ってきた。親王、載淵である。
彼はいつもの冷徹な数学者の顔ではなく、計算式の答えがどうしても見つからない少年のような、ひどく不器用で、かつ真剣な眼差しをしていた。
「……蘭瑛。貴様は国師という『地位』を捨てた。ならば、一人の女としての『居場所』については、どう考えている」
唐突な問いに、蘭瑛は小首を傾げた。
「居場所、ですか? 私はガラクタと知恵があれば、どこでも生きていけますわ。載淵様が貸してくださった、あの図書室の隅っこだって最高に快適ですし」
「……そうではない」
載淵は、溜息を吐くように呟くと、懐から小さな、だが重厚な装飾が施された箱を取り出した。
彼がその蓋を開けると、中には大粒の紅玉が設えられた銀の指輪が収められていた。月の光を吸い込み、深紅の火花を散らすその宝石は、一目で国宝級だとわかる代物だった。
「これは、地下牢で投げた『脱出のための道具』ではない。ましてや、観衆を欺くための『小道具』でもない」
載淵は、蘭瑛の細い手を取り、その指先に指輪を滑り込ませた。
「……今度は演出ではない」
載淵の声は、夜風に混じって低く、だが鋼のような硬い決意を孕んでいた。
彼は蘭瑛の手を、壊れ物を扱うかのような慎重さで引き寄せると、その細い指先に紅玉の指輪を滑り込ませた。
月の光を吸い込んだ宝石が、蘭瑛の震える指の上で、まるで生きているかのように深紅の脈動を繰り返す。
「生涯、私の隣で、その知恵と奇術を私一人のために披露し続けてはくれぬか。貴様という、世界で最も解き難い難問を……一生をかけて、愛し、解き明かしたいのだ」
蘭瑛は、息をすることさえ忘れていた。
いつもなら、この瞬間にふさわしい「皮肉な台詞」を千も万も思いつくはずの彼女の脳が、今はただ真っ白に塗りつぶされている。計算式も、物理法則も、すべてが彼の手の熱に溶かされていく。
「……載淵、様」
蘭瑛がその名を呼んだ瞬間、載淵の手が、彼女の手の甲を優しく、だが逃がさないという強い意志を込めて引き寄せた。
そのまま、彼は蘭瑛の華奢な肩を抱き寄せ、もう片方の手で彼女の首筋をそっと支える。指先から伝わる彼の熱、そして隠しようのない微かな震えが、蘭瑛の心臓に直に響いた。
「拒むなら、今だ。……私は一度捕らえた獲物を、離す計算を持ち合わせていない」
載淵の顔が、ゆっくりと近づく。
蘭瑛は、彼の瞳の奥に、数理では説明できないほどの深い情熱と、自分と同じだけの「不安」が揺れているのを見た。孤独に生きてきた奇術師の娘と、高貴な孤独に身を置いてきた親王。二つの孤独が、月明かりの下で重なろうとしていた。
蘭瑛は、そっと目を閉じた。
次の瞬間、重なったのは、羽毛のように優しく、だが焼けるような熱を帯びた唇だった。
それは、どんなマジックの衝撃よりも鮮烈で、どんな数式の証明よりも完璧な「答え」だった。
触れ合う唇から、互いの過去の痛み、地下牢での絶望、そして共に見た夜明けの光が、言葉を超えて流れ込んでくる。蘭瑛は、自分を支える彼の広い胸に、そっと手を添えた。彼が纏う香油の香りと、激しく打ち鳴らされる鼓動が、彼女のすべてを支配していく。
一度離れた唇が、名残惜しむように再び重なる。
載淵は、彼女の首筋に顔を埋め、絞り出すような低い声で囁いた。
「……蘭瑛。貴様という魔法に、私は一生、解けないままでいい」
蘭瑛の頬は、贈られた紅玉よりも深く赤らんでいた。彼女は彼の背中に腕を回し、その強靭な体温を感じながら、小さく、だが確かな幸福を噛み締めていた。
「……計算、間違いですよ、載淵様。……私の方が、ずっと前から貴方に、魔法をかけられていたんですから」
月は高く、風は止まり。
二人の影は、東屋の床に一つに溶け合い、永遠に続く長い夜を祝福しているかのようだった。
しかし──、その感動的な夜から数時間後。
蘭瑛の自室では、感動とは程遠い「奇妙な作業」が行われていた。
「……ふむ。この紅玉、表面のカットが五十八面体ではないわね。光の入射角に対して、内部反射がわずかに分散しているわ」
蘭瑛は、贈られたばかりの指輪を薬指から外し、手製の拡大鏡を覗き込んでいた。机の上には、反射効率を計算するための複雑な図面と、分度器、そして計算尺が散乱している。
「載淵様、これを『愛の証』と仰ったけれど……。このカットの角度なら、特定の光を当てれば背後の壁に『隠し文字』を投影する反射板として使えるんじゃないかしら。あ、それとも、この銀の台座を少し削れば、毒針を仕込むための微細な隙間が作れるかも……」
彼女の目は、恋に酔いしれる乙女のそれではなく、新しいギミックを開発する変態的な技術者の熱に浮かされていた。
「……おーい、蘭瑛。まだ起きてるの?」
扉を開けて入ってきた小翠は、指輪をルーペで舐めるように観察している蘭瑛の姿を見て、盛大な溜息を吐いた。
「あんたねぇ……。親王様が命がけでプロポーズして、あんなに甘い雰囲気だったって聞いたのに。なんで一人で光学分析やってるのよ」
「小翠、聞いてちょうだい! この紅玉、透過率が素晴らしくて、凸レンズと組み合わせれば日光で火を起こすための焦点合わせが三秒で終わるわ。これぞ究極のサバイバル道具よ!」
「……ダメだわ、この子」
小翠は呆れ果てて、くすくすと笑い出した。
「でも、まあ……それが蘭瑛らしいね。親王様も、きっとそんなあんたの『タネ』に惚れちゃったんだろうし。噛み合わないようで、世界で一番お似合いの二人だよ、本当に」
蘭瑛は、小翠の言葉に一瞬だけ顔を赤らめたが、すぐにまた拡大鏡に目を戻した。
「……一生続く難問、ですって? 望むところですわ、載淵様。私のこの指先から、貴方が一生解けないような、最高に贅沢な『タネ』を、毎日仕込んで差し上げますから」
月の光を反射する紅玉の指輪は、蘭瑛の手の中で、愛の証から「次なる奇術のパーツ」へと、見事にその役割を書き換えられていた。




