第43話 皇帝の誘い
万寿節の騒乱から数日。紫禁城の空気は、張り詰めた緊張感から一転して、どこか穏やかな熱を帯びていた。
瓦礫は片付けられ、焼け焦げた広場の石畳も新しく張り替えられたが、人々の口端に昇る「奇跡の夜」の記憶だけは、消えることなく鮮やかさを増している。
蘭瑛は今、後宮の最奥、皇帝が政務を執る『太和殿』の御前にいた。
煤にまみれたガラクタ拾いの装束ではなく、麗妃が用意した最高級の薄絹の官服に身を包んでいる。しかし、その背筋の伸び方や、物怖じしない瞳の輝きは、衣装が変わっても何ら変わることはなかった。
玉座に座す皇帝は、昨夜の死の恐怖から救い出された恩人に、柔和な、しかし絶対的な権威を湛えた視線を向けていた。
「蘭瑛。貴様の父、蘭鳳の忠義については、既に述べた通りだ。……だが、余は思う。その父を超え、理と奇術を以て余の命を繋いだ貴様という存在こそ、この帝国が今最も必要としている宝ではないかとな」
皇帝の言葉に、周囲に控える高官たちが息を呑む。彼らが期待している――あるいは恐れている――言葉が、皇帝の唇から紡がれた。
「蘭瑛よ。貴様に『国師』の座を授けよう。玄天が座していたあの地位、いや、それ以上の特権を与え、我が帝国の科学と奇術のすべてを統括させたい。貴様が望むなら、あらゆる資材、あらゆる人員を自由にするが良い。貴様という魔法使いを、我が傍らに留めたいのだ」
国師。それは、宗教と科学、そして皇帝の信任を一手に引き受ける、人臣極まる地位だ。かつて玄天が、その地位を餌に蘭鳳を追い詰め、蘭瑛自身をも地獄へ落とそうとした「魔の座」でもある。
普通の人間であれば、震えながら平伏し、その栄誉に涙するだろう。
だが、蘭瑛は静かに頭を下げた後、ゆっくりと顔を上げた。その唇には、どこか悪戯っぽい、マジシャン特有の弧が描かれている。
「陛下、恐れながら……その勿体なきお言葉、謹んで辞退させていただきますわ」
太和殿の空気が、一瞬で凍りついた。
隣に控えていた載淵さえも、眉を微かに動かす。彼は蘭瑛が断ることは予測していたが、これほどまでに真っ直ぐ、皇帝の誘いを一蹴するとは思っていなかったのだ。
「辞退すると申すか? 蘭瑛、貴様、自分が何を断っているか理解しているのか。権力、財産、そして亡き父の名誉。すべてを盤石にする道なのだぞ」
皇帝の声には、怒りよりも純粋な困惑が混じっていた。
蘭瑛は、ふわりと袖を翻すと、まるで舞台の上で観客に語りかけるような口調で答えた。
「陛下。……マジシャンという生き物は、つくづく業が深いものです。私たちは、お客様が『わあ、すごい!』と驚く顔を見るのが何よりの報酬。ですが、その驚きを作るためには、誰にも見られてはいけない『孤独な準備』が必要なのです」
蘭瑛は、自らの細い指先を眺めた。
「国師という地位は、いわば完成された豪華な舞台の上で、ライトを浴びる役者のようなもの。……ですが私は、そんな煌びやかな場所に座って、人々にタネ明かしを迫られるような生活は退屈で仕方がありません」
彼女は一歩前に出ると、玉座の皇帝に向かって、凛とした声で言い放った。
「私は、タネ明かしをされる場所より、タネを仕込む場所の方が好きなのです」
タネを仕込む場所。
それは、人々の視線が届かない暗闇。ガラクタが山積みになった工房。計算式で埋め尽くされた古びた紙。そして、これから何が起こるか誰も知らない、未知の可能性。
「この広い帝国には、まだ私の知らない物理の法則があり、私の知らない『驚き』の種が眠っています。宮中という、答えの決まりきった檻の中にいては、私の指先はすぐに錆びついてしまうでしょう。私は、誰の目にも止まらない街の片隅で、あるいは名もなき女官たちの囁きの中で、次の『奇跡』の仕掛けを練り上げていたいのです」
皇帝は呆気に取られ、その後、腹の底からこみ上げるような笑い声を上げた。
「ははは! 面白い。実に面白い女だ! 玄天は国師の座という『結果』のために魂を売ったが、貴様は『過程』を愛するために、帝国の頂点を捨てるというのか!」
皇帝の笑い声が殿内に響き渡り、重苦しい緊張が解けていく。皇帝は満足そうに頷くと、傍らに立つ載淵に視線を投げた。
「載淵よ。貴様の目は確かだった。この女、並の人間では飼い慣らせぬぞ。……蘭瑛、貴様の願い、聞き届けよう。貴様は国師にはならずともよい。だが、その指先が、我が帝国に再び危機が訪れた際、再び『タネ』を仕込んでくれると信じている」
「はい。その時は、最高に大掛かりな仕掛けを用意させていただきますわ」
拝謁を終え、長い階段を降りていく蘭瑛の隣に、載淵が追いついた。
彼は少しだけ苦い顔をしながら、だがその実、誇らしげに彼女を見つめた。
「……陛下にあんなことを言うのは、世界中で貴様くらいのものだぞ。タネを仕込む場所が好き、だと?」
「本当のことですもの。載淵様だって、数式の証明が終わってしまった論文より、まだ解けない難問を前にしている時の方が、ずっといいお顔をなさいますわ」
「……認めざるを得ないな」
載淵は、宮中の喧騒から離れた、静かな中庭へと彼女を導いた。
蘭瑛の足取りは軽い。権力を捨て、自由を選んだ彼女の瞳は、これからの「仕込み」に想いを馳せて、星のように輝いていた。
「さて、載淵様。国師の座は断りましたが……次の演目の構想はもう始まっていますのよ」
「……聞こう。次は、どんな不可能な魔法を私に見せるつもりだ?」
「それは……まだ秘密ですわ。マジシャンは、一番大事なタネは、最後まで明かさないものですから」
蘭瑛は、朝の陽光を指先で弄ぶようにしながら、鮮やかに笑った。
彼女の選んだ道は、光り輝く玉座ではなく、知恵と工夫で未来を書き換える、果てなき舞台裏への旅路だった。




