第40話 究極の守護マジック
「――今です、引いて!!」
蘭瑛の悲鳴にも似た号令が、奈落の底から響き渡った。
逆回転を始めた青銅の歯車が、楼閣全体の構造を強制的に組み換え、軋みを上げる。その振動は、燃え盛る巨大な塔を、まるで苦悶に震える巨人のように揺らした。
玄天が己の権威の象徴として築き上げた楼閣は、今や父・蘭鳳が遺した「真実を告発する巨大な仕掛け」へと変貌を遂げている。
上層部では、焼け落ちた梁が次々と落下し、炎が渦を巻いて天を焦がしていた。載淵は、崩れ落ちる残骸から皇帝を庇い、その背後に退避させている。皇帝は、眼下で起きている信じがたい光景に、言葉を失い立ち尽くしていた。
その時、楼閣が大きく、北側へと傾いた。
それは崩壊の兆しではない。蘭瑛が床下の機構を動かしたことで、重心を支えていた巨大な「鉛の重り」が、計算通りの位置へと落下したのだ。
――ドォォォォォン……ッ!!
地響きと共に舞台全体が跳ね上がる。その衝撃と、物理的な慣性、そして父が仕込んでいた弾石の原理が一点に収束した。
舞台の床板が爆ぜるように跳ね上がり、炎のカーテンを切り裂いて、一本の「影」が虚空へと飛び出した。
それは、煤け、錆びつき、時の重みに耐え抜いてきた一本の「剣」だった。
回転しながら月明かりの下に躍り出たその剣は、炎に照らされて鈍い輝きを放ち、まるで主の帰還を待っていたかのように、皇帝の目前の床へと深く突き刺さった。
「これは……まさか、あの日の……」
皇帝が、震える声を漏らした。
十三年前、彼の父(先代皇帝)の喉元を掠め、宴を地獄に変えた、あの「呪われた剣」そのものだったからだ。
「陛下、ご覧ください! 逃げずに、その剣の先をよくご覧になって!!」
楼閣の奈落から、全身に煤を浴びた蘭瑛が這い上がり、剣を指差して叫んだ。
載淵が差し出した手を掴み、蘭瑛は舞台の上へと舞い戻る。彼女の目には、炎の熱にも負けない、燃えるような真実の輝きが宿っていた。
皇帝は、恐る恐る剣の切っ先へと目を向けた。
そこには、驚くべき光景があった。
鈍く光る剣の先端。そこには、人間の指先ほどの小さな、だが頑強な「真鍮の筒」が、まるで最初からそうであったかのように、剣身を貫通して食い込んでいたのだ。
「真鍮の……筒? これは、何だ」
「それこそが、あの日、貴方の父の命を奪うはずだった『死神の牙』ですわ、陛下!」
蘭瑛は、突き刺さった剣の傍らへ膝をつき、その真鍮の筒を指し示した。
「十三年前のあの夜、お父さん……蘭鳳は、マジックの最中に気づいたのです。客席の死角、玄天の影に潜んでいた刺客が、毒を仕込んだ暗器筒を構えたことに。もし、お父さんがそこでマジックを中断して叫んでいたら? 陛下の父はパニックになり、刺客はさらに確実に引き金を引いたでしょう。あるいは、混乱に乗じて玄天が別の刃を振るっていたはずです」
蘭瑛の脳裏には、父がたった一人で対峙した、あのコンマ数秒の孤独な戦いが浮かんでいた。
「お父さんは、選んだのです。マジシャンとしての名誉を、そして自分の命を、一瞬で投げ捨てることを! 父は、剣を消すための機構を瞬時にロックした。そして、消えるはずの剣を、飛来する暗器を叩き落とすための『絶対の盾』として突き出したのです!」
真相は、あまりにも残酷で、そしてあまりにも気高いものだった。
あの日、父が使っていたのは「消える剣」ではなかった。暗器の衝撃を受け止め、弾き返すための、特殊な硬度を持った本物の鋼だった。
キン、という鋭い金属音と共に、父の剣が放たれた暗器を空中で迎撃した。
暗器の真鍮筒は、剣の切っ先に食い込み、その勢いを殺された。だが、その衝撃で剣の軌道はわずかに逸れ、先代皇帝の衣装を掠めた。
観衆の目には、それは「不手際で皇帝を刺そうとした失敗」に見えた。
だが、その「失敗」こそが、先代皇帝の喉を貫くはずだった猛毒の針を、世界から消し去った「究極の守護マジック」だったのだ。
「お父さんは……知っていたはずです。剣を突き出せば、自分が暗殺未遂の罪に問われることを。それでも、彼は微笑んでそれを選んだ。マジシャンは、誰に褒められずとも、観客を幸せにするのが仕事ですものね……。たとえ、自分が死罪になろうとも、貴方の父を生かすことこそが、お父さんにとっての『マジックの成功』だったんです!」
蘭瑛の叫びが、夜風に乗って紫禁城に響き渡る。
皇帝は、膝をつき、錆びついた剣の柄にそっと手を触れた。
十三年間、彼の父を殺そうとした憎き仇敵の遺品だと思い込んできたその剣が、今、その父を生かしてくれた唯一の恩人の形見へと、その意味を劇的に書き換えていく。
「……蘭鳳よ。余は、余は何という間違いを……」
皇帝の目から、大粒の涙が溢れ出した。
権力の頂点に立ち、誰も信じられぬ孤独の中にいた彼に、一人の男が「命」を、そして「マジシャンとしての名誉」のすべてを捧げていた。そのあまりにも巨大な愛に、帝国の主は子供のように震えた。
その光景を、楼閣の影から見ていた玄天は、顔を土色に変えて後ずさった。
「あり得ぬ……あんな古いガラクタが、私の、私の計算を……!」
「玄天殿」
載淵が、冷徹な死神のような足取りで、玄天の前に立ち塞がった。その剣先は、迷いなく偽りの神の喉元を指している。
「貴様の計算には、決定的な変数が欠けていた。……それは、人間が誰かのために、己のすべてを投げ出すという『献身』という名の数式だ。それは貴様のようなガラクタには、一生かかっても解けぬ難問だったようだな」
炎上する楼閣が、最後の一際大きな崩落の音を立てた。
崩れ落ちる残骸の中、父の剣だけが、真実の証として、月明かりの下で誇らしげに立っていた。
蘭瑛は、その剣を見つめ、心の中で静かに語りかけた。
(お父さん、見ていて。……今度こそ、誰もが拍手喝采を送る、本当のフィナーレを見せてあげるわ)




