第39話 十三年前の欠片(ピース)
「皇帝を守れ! 盾を構えよ!」
載淵の怒号が、爆ぜる火の粉を切り裂いて響き渡る。
楼閣が不気味な地鳴りを立てて回転を始めた。それは、父・蘭鳳が梁に刻んだ幾何学模様が、炎の熱によって計算通りに膨張し、巨大な鍵として噛み合った証拠だった。だが、同時にそれは、焼けた木材がその構造的限界を迎え、巨大な質量となって崩落し始めるカウントダウンでもあった。
誰もが熱風から逃れようと背を向ける中、蘭瑛だけは、火の粉が舞い落ちる楼閣の「直下」へと足を踏み入れた。
「蘭瑛! 狂ったか! 戻れ!」
「いいえ、載淵様! ここに、すべての答えがあるんです!」
蘭瑛は、崩れゆく床板の隙間から、燃え盛る楼閣の底部……暗く、熱気に満ちた「奈落」へと迷わず滑り込んだ。
そこは、玄天が己の虚飾を支えるために作り上げた、醜悪な機械室だった。しかし、その最新鋭の装置の隅に、場違いなほど古び、錆び付いた「巨大な青銅の歯車」が、まるで忘れ去られた遺物のように鎮座していた。
「……これだわ。お父さんの、最後の一片」
その歯車には、玄天が付け加えた華美な装飾など一つもない。ただ、過剰なほど頑強に、そして正確に、十三年前のあの夜から時を止めてそこにいた。それは、蘭鳳が亡くなる間際まで触れていた、あの日のマジックの「中枢」だった。
「小翠! 滑車に水をかけて! 軸が焼き切れる前に熱を奪うの!」
「う、動けないよ蘭瑛! 怖すぎる!」
「私を信じて! お父さんは、この瞬間を待っていたのよ!」
奈落の入り口で震えていた小翠が、蘭瑛の叫びに弾かれたように動き出した。女官たちが、必死に水を運び、焼けたロープの代わりに、自分たちの帯を繋ぎ合わせた急造の綱を柱に掛ける。
「みんな、あの主柱を全力で引いて! 歯車を逆回転させるのよ!」
蘭瑛は、熱せられた歯車の隙間に、自分の細い腕を差し込んだ。
指先が焼けるような熱。だが、その金属の肌に触れた瞬間、蘭瑛の脳内に父の設計図が、まるで鮮やかな色彩を伴って蘇った。
(お父さん……貴方はあの日、何を「隠そう」としたの?)
十三年前。皇帝の御前で行われた、あの伝説のマジック。
蘭鳳は、箱に入った皇帝に向かって、鋭い剣を突き刺すはずだった。本来なら、剣は箱の仕掛けによって「消える」はずだったのだ。しかし、あの日、剣は消えなかった。剥き出しの刃はそのまま突き刺さり、皇帝の衣装を掠め、宴を地獄へと変えた。
それが、父が「失敗した奇術師」として処刑された理由。
だが、今、蘭瑛が触れているこの歯車の裏側には、隠されていた真実の記録が刻まれていた。蘭瑛は、歯車の溝に詰まった古い煤を掻き出し、そこに現れた「打撃の痕跡」を指でなぞる。
「……違う。お父さんは、失敗したんじゃない」
蘭瑛の瞳に、激しい光が宿った。
彼女は、歯車の噛み合わせの「歪み」を物理的に計算し、その瞬間に起きた事象を逆算した。
あの日、父が手にしていたのは、消えるための「中空の剣」ではなかった。
極めて重く、絶対に折れることのない、「特殊な硬度の鋼の剣」。
奇術師が、あえて「消えない本物の剣」を演目に持ち込んだ。その矛盾の答えは、歯車に残された「外部からの衝撃痕」にあった。
「……あの日、陛下を狙っていたのは、お父さんじゃない」
蘭瑛の声が、轟々と燃える火の音を突き抜けて、載淵の耳に届いた。
載淵は、炎を剣で薙ぎ払いながら、蘭瑛の元へと駆け寄る。
「何だと……? 蘭鳳ではないと言うのか!」
「ええ、見て載淵様! この歯車の傷! これは、客席の死角……玄天がいた場所から放たれた『暗器』が、皇帝の喉元を直撃する寸前に、お父さんの剣がそれを叩き落とした痕跡よ!」
蘭瑛の言葉に、載淵は息を呑んだ。
十三年前、玄天はマジックの混乱に乗じて皇帝を暗殺しようとした。それに気づいた蘭鳳は、マジックを中断して叫ぶ時間はなかった。もし叫べば、パニックの中で暗殺は成功していただろう。
だから父は、あえて「失敗したフリ」をしたのだ。
消えるはずの剣を、本物の盾として突き出し、飛来した暗器を空中で迎撃した。
剣が消えなかったのは、不手際ではない。暗器の衝撃を受け止めるために、剣が消えてはいけなかったのだ。
「お父さんは、自分の名誉も、自分の命も……マジシャンとしてのプライドさえもすべて捨てて、陛下を守るための『たった一度の失敗』を演じきったんだわ!」
蘭瑛の頬を、熱風ではない涙が伝った。
父は、自決をするその瞬間まで、この真実を語らなかった。なぜなら、真実を語れば、当時まだ強大だった玄天の勢力に、娘である蘭瑛が狙われると分かっていたから。
父は、自分が「下手な奇術師」として死ぬことで、娘に「ただのガラクタ拾い」という名の安全な居場所を遺したのだ。
「小翠、今よ! 引いて!」
蘭瑛が渾身の力で歯車のロックを外した。
逆回転を始めた古い歯車が、楼閣全体の構造を強制的に「組み換え」始める。
炎上する楼閣は、崩壊するのではない。
父が十三年前に仕込んだ、「暗殺の証拠を衆目に晒すための舞台」へと姿を変えていく。
「さあ、お父さん。……最後の一幕、私が完璧に演じてみせるわ!」
崩れゆく火の粉のカーテンの向こう、蘭瑛は父の遺したガラクタという名の「守護の意志」を背負い、立ち上がった。
真実という名のピースが、今、炎の中で完璧に繋がったのである。




