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第34話 影の協力者たち

 地下牢へと続く石造りの階段を、暴力的なまでの足音が駆け下りてきた。

 湿り気を帯びた空気の中、松明の炎が激しく揺れ、闇の奥底まで禍々しい赤い光が侵食してくる。番兵たちがうろたえ、制止しようとする声が響くが、それらすべてをなぎ倒すような衝撃音が地下に木霊した。


 その喧騒の中心にいたのは、冷静沈着という重い皮をかなぐり捨てた一頭の獣――親王、載淵であった。


「……蘭瑛!」


 鉄格子の前に辿り着いた彼の姿は、凄惨ですらあった。後頭部には刺客との死闘で打たれた傷が残り、乾いた血がこびりついている。最高級の絹で仕立てられた官服は、捜索の最中に裂け、泥と煤にまみれていた。だが、その瞳に宿る執念の炎だけは、暗澹たる地下牢を焼き尽くさんばかりに輝いている。


 載淵は、格子越しに蘭瑛の姿を捉えると、指先が白くなるほど鉄棒を掴んだ。その手が、微かに震えているのを、蘭瑛は見逃さなかった。

「無事か……。答えろ、蘭瑛! 怪我はないか、指は……指は動くのか!」


 独房の隅、わずかな月光の下でガラクタを弄っていた蘭瑛は、驚いたように顔を上げた。その片手には未だ重い枷が残り、もう片方の手には小翠が集めてきた錆びた針金が握られている。

「……載淵様。そんなに大声を上げなくても、ちゃんと聞こえていますよ。後宮を丸ごとひっくり返してきたような顔をなさって」


 蘭瑛の、いつもと変わらぬ、どこか人を食ったような落ち着いた声。それを聞いた瞬間、載淵の肩から目に見えて力が抜けた。安堵と、それ以上に、自分をこれほどまでにかき乱した女への怒りが混ざり合った、複雑な溜息が漏れる。


「……貴様という女は、この状況でよくもそんな口が叩けるものだ。私がどれほど、貴様を……」

 載淵は言葉を飲み込んだ。鉄格子を隔てた二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。蘭瑛は手元の針金を弄りながら、ふと、計算し尽くしたような瞳で彼を見上げた。


「載淵様。……私をここから出したいなら、一つだけ必要なものがあります」

「何だ。言え。この地下牢の鍵か? 番兵を斬ってでも奪ってきてやる」

「いいえ、鍵などいりません。……ただ、純度の高い、柔らかい『金』があれば、この檻を物理的に無効化できるのですが……。まあ、こんな場所にそんな都合のいいもの、あるはずありませんよね?」


 蘭瑛はあえて自嘲気味に笑い、視線を落とした。それは、載淵の覚悟を試すような、あるいは彼なら応えてくれると確信しているような、奇術師特有の「誘い」だった。


 載淵は一瞬、呆然と蘭瑛を見つめた。だが、すぐに彼女の意図を――そして、彼女が何を求めているかを悟った。彼は迷うことなく、自らの右手に嵌められた重厚な印章指輪に手をかけた。

 それは皇族の証であり、彼の誇り、そして彼自身の身分を証明する唯一無二の宝飾品だ。


「……ふん、策士め」


 載淵は短く吐き捨てると、その指輪を引き抜き、格子の隙間から蘭瑛の足元へと投げ入れた。


「それを使え。……不本意だが、私の身分を証明するこの金は、この国で最も不純物が少ない。貴様のその異常な指先なら、これを『奇跡』の道具に変えられるだろ。一刻も早く、その薄汚い箱から出てこい」


 転がってきた金の重量感を確かめ、蘭瑛の唇に不敵な弧が描かれる。

「……最高級の素材をありがとうございます、載淵様。マジシャンでも、これほど贅沢な『滑り止め』はそう持てませんわ」


 蘭瑛は、床に転がっていた平らな石の上に指輪を据えると、すでに外れていたもう片方の「鉄の枷」を重石代わりにして、正確に数回叩きつけた。純金は、その驚異的な展延性ゆえに、見る間に紙のように薄い「金の箔」へと引き伸ばされていく。


「小翠、そこに集めた資材の中から、一番丈夫な麻布を束ねて持ってきて! 載淵様、貴方はその太い鉄杭を拾ってください」


 蘭瑛は叩き伸ばした金箔を、二本の鉄柵の表面にそれぞれ丁寧に貼り付けた。

 そして、小翠が差し出した太い布を、金の表面を覆うようにして二本の柵に「八の字」状に巻き付ける。


「金は極めて柔らかく、鉄の微細な凹凸に食い込みます。これで、滑りやすい布が鉄柵に完璧に固定される……。載淵様、布の輪の中にその鉄杭を差し込んで。あとは……思い切り、雑巾を絞るように回してください!」


 載淵は蘭瑛の意図を完全に理解した。鉄杭を布の間に通すと、自身の強靭な腕力でそれをぐるぐると回転させ始める。

 一回転、二回転。

 布がねじれるたびに、二本の鉄柵を引き寄せる猛烈な圧力が集中していく。布が滑ろうとしても、間に挟まった金が「最強のグリップ」となって力を逃がさない。これこそが、テコの原理を極限まで高めた『スペイン式ウインチ(締め具)』の威力だ。


 ――ギギギ、ガチッ……!


 絶対に曲がらぬはずの太い鉄柵が、載淵の剛腕と蘭瑛の知恵、そして彼の誇りである金の摩擦力に屈し、内側へとひしゃげた。大人が一人、十分に通り抜けられるだけの隙間が、闇の中に口を開ける。


 蘭瑛がその隙間から這い出した瞬間だった。

 待ち構えていた載淵の強い腕が、彼女の体を乱暴に、しかし愛おしむように引き寄せた。


「え……?」


 言葉を交わす暇もなかった。載淵は、泥と煤にまみれた蘭瑛を、無言で固く抱きしめた。

 あまりの力に、蘭瑛の胸の呼吸が止まる。耳元には、載淵の激しく乱れた鼓動が直に伝わってきた。論理と理性を信条とするはずの彼が、今この瞬間、どれほど「非合理的」な激情に支配されているか。その心臓の音が、何よりも雄弁に語っていた。


「……載淵様、苦しいです……。衣装が汚れてしまいますよ」

「……黙れ。二度と私の視界から消えるなと言ったはずだ。合理的ではないと言っただろう。貴様を失うという損失は……私には、万金の財宝よりも耐え難い」


 掠れた声が、蘭瑛の髪を震わせる。

 蘭瑛は、驚きに目を見開いていたが、やがてそっと、自由になった両手を彼の背中に回した。彼の震えを感じ、蘭瑛は自らもまた、この男の存在にどれほど魂を救われていたかを悟る。


「……はい。でも、甘えるのはここまでです。……見てください。助っ人は、載淵様だけじゃないんです」


 載淵が蘭瑛を離し、視線を向けた先。地下牢へと続く通路には、いつの間にか、数え切れないほどの女官たちの影があった。

 小翠が後宮中を駆け巡り、蘭瑛の危機と父の真実を、そして彼女の「奇術」への信頼を伝えて回ったのだ。彼女たちが抱えているのは、豪華な演目用の衣装ではない。古びたカーテン、厨房の滑車、洗濯場から持ち出した長い綱、そして修繕用の端切れ。


「蘭瑛、これ持ってきたよ!」

 小翠が、息を切らしながら資材の山を抱えて現れた。

「みんな、あんたが玄天をやっつけるところが見たいって。あんたの指先なら、このゴミ全部を魔法に変えられるんでしょ?」


 女官たちは、口々に蘭瑛の名を呼んだ。権力者に怯え、声を押し殺して生きてきた彼女たちが、今、たった一人の奇術師のために、その静かな意志を「資材」という形に変えて集結したのだ。


「載淵様、女官たちに指示を。彼女たちが運んできたこの資材を、舞台裏の『死角』に配置してください。……お父さんが遺した手順と、みんなが運んでくれたこのガラクタがあれば、玄天の仕掛けた『死の檻』は、空へと消える魔法の箱に変わります」


 蘭瑛の瞳に、不敵な輝きが戻っていた。

 親王の権力、名もなき女官たちの結束、そして父から受け継いだ十三年越しの秘策。

 それら全てを操り、一本の「糸」にまとめ上げるのが、奇術師・蘭瑛の真骨頂。


「わかった。……この地下牢一帯は、私の私兵が封鎖する。女官たちの動きは私が保証しよう。……蘭瑛、貴様は貴様の戦場へ行け」


 載淵は、蘭瑛の肩を叩き、力強く背中を押した。

 蘭瑛は、小翠や女官たちと共に、資材を抱えて地上へと駆け上がる。

 万寿節の祝宴は、もはや皇帝のためのものではない。

 それは、十三年前に止まった時間を動かし、偽りの神を舞台から引きずり下ろすための、壮大な「逆転劇」の序幕であった。


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