第35話 麗妃の決断
万寿節の夜。
紫禁城の夜空には、数千の提灯が星を隠すほどに煌めき、広場に設けられた巨大な特設舞台は、国中の富を集めたかのような黄金の輝きを放っていた。
皇帝が座す玉座の周囲には、高官や妃たちが居並び、その誰もが今宵の目玉――伝説の奇術『昇天の楼閣』の開幕を、固唾を呑んで待ちわびていた。
だが、舞台裏の空気は、祝祭の華やかさとは裏腹に、凍り付くような殺気と焦燥に支配されていた。
「……鼠め、どこへ消えた」
玄天は、冷酷な目で舞台袖を睨んでいた。
地下牢へ送ったはずの蘭瑛が消えたという報告は、まだ入っていない。だが、彼の本能が、何かが狂い始めていることを告げていた。自ら仕掛けた「死の罠」が、まだ獲物を喰らっていないという違和感。
しかし、皇帝をこれ以上待たせることは死を意味する。玄天は、袖の中に隠した鋭い針を指先でなぞり、表情を「神の奇術師」のものへと作り替えた。
「陛下。……今宵、真の天昇をお見せするはずだった弟子の一人、蘭瑛は、己の未熟さを恐れ、土壇場で逃亡いたしました」
玄天の言葉に、観衆がざわめく。皇帝の眉がピクリと動いた。
「逃げただと? 私の宴を汚すか」
「……お許しください。ですが、師であるこの私が、彼女の分まで命を懸けて、最高の一時を捧げましょう。今、伝説が幕を開けます」
玄天が合図を送ろうとした、その時だった。
「――お待ちくださいませ、陛下」
静かだが、宴の喧騒を切り裂くほどに凛とした声が響き渡った。
すべての視線が、玉座の隣、一段低い席に座っていた麗妃へと集まる。彼女は、今しがた届いたばかりという体を装い、立ち上がった。その装束は、通常の妃が纏うものとは一線を画していた。孔雀の羽をあしらい、裾には幾千もの銀糸が波打つ、伝説の舞姫を彷彿とさせる異様なまでの美しさ。
麗妃は、優雅な所作で皇帝の前に跪いた。
「陛下。玄天殿は謙遜が過ぎますわ。蘭瑛が不在なのは、逃亡したからではございません。彼女は今、私の舞と奇術を融合させる『最後の下準備』に、舞台の奥底で心血を注いでいるのです」
玄天の瞳が、一瞬にして見開かれた。
(何を……何を言っている、この女は!)
玄天の殺気を含んだ視線を、麗妃は涼やかな笑みで受け流す。
「麗妃よ、舞だと? 貴様が、この大掛かりな奇術に参加するというのか」
皇帝の問いに、麗妃は妖艶に微笑んだ。
「ええ、陛下。愛する貴方様の長寿を祝うこの夜に、ただ座して眺めているだけでは、私の誠意が足りませぬ。……玄天殿。貴方は先に壇上へ。私が、貴方の奇術に『魂』を吹き込んで差し上げますわ」
麗妃は、玄天の傍を通り過ぎる際、彼にしか聞こえない極小の声で囁いた。
「……あんたの思い通りにはさせないわ。あの子が来るまで、この舞台は私が支配する」
玄天は怒りで顔を歪めかけたが、皇帝の目の前で麗妃を拒むことはできない。もし拒めば、演出の不備を認めることになり、奇術師としての名声に傷がつく。
「……承知いたしました、麗妃様。光栄な申し出だ」
玄天は奥歯を噛み締めながら、舞台の中央へと進み出た。
麗妃もまた、ゆっくりと、しかし確かな足取りで壇上へと向かう。彼女の心臓は、胸を突き破らんばかりに高鳴っていた。
(蘭瑛……。私は、あんたのように魔法は使えない。ガラクタを金に変えることも、檻を壊すこともできないけれど。……嘘を真実だと思わせる『演技』なら、誰にも負けないわ)
舞台の中央には、高さ三丈(約九メートル)にも及ぶ、巨大な木製の塔――『昇天の楼閣』が鎮座している。その内部には、一度入れば二度と出られない死の仕掛けが満載されていた。
麗妃は、楼閣の周囲を舞い始めた。
それは、後宮という毒の園で生き抜くために磨き上げた、男を惑わし、敵を欺くための「武器としての舞」だった。彼女が袖を振るたびに、銀の鈴が鳴り、観衆の意識を舞台袖から、そして舞台の裏側から、強制的に自分へと引き寄せていく。
「さあ、玄天殿。始めましょう?」
麗妃は舞の合間に、あえて仕掛けの箱に指をかけ、玄天の動きを執拗に妨害した。玄天が幕を引こうとすれば、麗妃がその裾を踏み、玄天が火を吹かせようとすれば、麗妃が扇でその火を散らす。
「貴様……! 何のつもりだ!」
玄天が低く唸る。麗妃は、観客からは見えない角度で、玄天の喉元に簪を突きつけるかのような勢いで顔を近づけた。
「……時間が足りないのかしら? 希代の奇術師様が、私の舞一つに翻弄されて。陛下がお笑いになっていましてよ」
皇帝は、麗妃の奔放な振る舞いを「新しい趣向」として愉しげに眺めていた。皇帝の目が離れない以上、玄天は麗妃を排除することも、無理に演目を進めることもできない。
一分、また一分。
麗妃は全身の筋肉を酷使し、息を切らしながらも、完璧な微笑みを絶やさなかった。彼女の額には真珠のような汗が浮かび、豪華な装束の重みが体力を奪っていく。だが、彼女は舞うのを止めない。
(まだ……まだよ。蘭瑛が、お父さんの無念を晴らすための『道』を整えるまで。私はここで、世界中のすべての目を盗んでみせる!)
その時。
舞台の底、奈落の方から、微かな、だが規則正しい振動が麗妃の足裏に伝わってきた。
それは、女官たちが運んだ資材が配置され、滑車が回り、死の罠が「希望の脱出口」へと書き換えられた合図。
麗妃は、確信した。
主役が、地獄から戻ってきたことを。
彼女は最後の力を振り絞り、高く、天を仰ぐように舞い上がった。その瞬間、舞台裏から一筋の冷たい風が吹き抜け、提灯の炎が一斉に揺らぐ。
「――陛下。準備が整いましたわ」
麗妃は、息を弾ませながら皇帝に深々と一礼した。
その背後、巨大な楼閣の影から、一人の女が静かに姿を現した。
煤に汚れながらも、その瞳に銀河のような輝きを宿した奇術師――蘭瑛。
麗妃と蘭瑛の視線が、一瞬だけ交差した。
言葉は不要だった。麗妃の繋いだ「時間」という名のバトンが、今、蘭瑛の手へと渡されたのだ。
「……麗妃様。最高の前座を、ありがとうございました」
蘭瑛の囁きに、麗妃は満足げに目を閉じ、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
逆襲の舞台は、ついに整った。
偽りの神・玄天を、その傲慢ごと天へと葬り去るための、最後の演目が今、始まる。




