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第33話 闇の中の訓練

 地下牢を支配する死のような静寂を破ったのは、李総管の足音でも、冷酷な番人の巡回でもなかった。

 それは、石床を這うような、心許ない衣擦れの音。そして、押し殺したような、切実なすすり泣きだった。


「……蘭瑛? 蘭瑛、そこにいるの……?」


 格子の向こう側、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がったのは、ボロボロの女官服をまとった小翠ショウスイだった。玄天の部下に「もう用済みだ」と放り出された彼女は、恐怖に震える足で、密かに蘭瑛のあとを追ってきたのだ。


「小翠……! 無事だったんだね」

「ごめん、蘭瑛……! 私が捕まったせいで、あんたがこんな場所に……。私がもっと、うまく立ち回っていれば……っ」


 小翠は冷たい鉄格子にしがみつき、声を上げて泣いた。自分の存在が、親友の翼を折るための鎖になってしまった。その罪悪感に押しつぶされそうになっていた。


 蘭瑛は自由になった片手を格子の隙間から伸ばし、小翠の涙に濡れた頬を乱暴に、けれど温かく拭った。

「泣かないでよ、小翠。あんたが無事でいてくれた。それが、今の私にとって一番の『成功報酬』なんだから。……それとも、私の眼力を疑ってるわけ?」


「そんなこと……! でも、道具も全部壊されちゃったんでしょ? これから万寿節の演目が始まっちゃうのに、どうするのよ……」


 蘭瑛の瞳に、鋭い光が宿った。それは絶望した者の目ではなく、難解なパズルを前にした職人の目だった。

「いい、小翠。泣いてる暇はないわ。今から言うものを、この地下のどこかから、あるいはゴミ捨て場から集めてきて。誰にも見つからないようにね」


「え……? 道具なら、もう何もないじゃない」


「マジシャンはね、豪華な箱とタネだけで奇跡を起こすんじゃないの。……小翠、あんたが持ってきた『ガラクタ』が、私の新しい魔法になるんだから。私を信じなさい」


 蘭瑛が口にしたのは、およそマジックの道具とは思えないものばかりだった。

 割れた鏡の破片、錆びた針金、捨てられた燭台の蝋、誰かが落とした絹の端切れ、そして、厨房の裏に落ちているはずの火打ち石の欠片。


 小翠は混乱しながらも、蘭瑛の揺るぎない瞳に背中を押され、「わかった、すぐ戻る!」と闇の中へと駆け出していった。


 一刻(二時間)が経過した。

 戻ってきた小翠の手には、泥にまみれた「ガラクタ」の山があった。

 鉄格子の隙間からそれらを受け取ると、蘭瑛の指先が、まるで独自の意志を持っているかのように動き始めた。


 それは「訓練」というよりは、「儀式」に近かった。


 割れた鏡の破片を、指先の感覚だけで特定の角度に削り出し、蝋を使って石壁の窪みに固定する。それは、祖父から学んだ光の屈折理論の実践だ。

錆びた針金は、拾い集めた鋭利な石の角で小さな傷をつけ、そこを中心に指先で目にも止まらぬ速さの往復運動を加える。熱せられた金属が「金属疲労」によってポキリと折れると、蘭瑛はそれを口に含んで微調整し、精密なバネへと作り替えていった。

 端切れを裂いて作った細い糸は、暗闇の中で「見えない導線」へと変貌した。


「……信じられない。蘭瑛の指、さっきからどうなってるの?」

 小翠は息を呑んで見守っていた。

 豪華な衣装も、金銀細工の道具もない。だが、泥と錆にまみれたガラクタが、蘭瑛の手を経るたびに、見たこともない「仕掛け」へと命を吹き込まれていく。


 蘭瑛の集中力は、すでに極限に達していた。

 父が壁に遺した「最後の手順」を、目の前のガラクタでどう再現するか。脳内で何百回、何千回とシミュレーションを繰り返す。

 道具がないからこそ、本質が見える。

 奇術とは、観客の心理を誘導し、物理の法則をわずかに歪める知的格闘技なのだ。


「……できたわ」


 蘭瑛が呟いた。

 彼女の周りには、一見するとただのゴミの山が散らばっているように見える。

 だが、特定の角度から、特定のタイミングで光を当てれば、そこには「あるはずのない通路」と「消えるはずのない影」が生まれる。


 職人魂の覚醒。

 父の伝統、祖父の科学、そして蘭瑛自身の執念。

 三代にわたる奇術師の想いが、地下牢という極限の実験室で、一つの結晶になろうとしていた。


「小翠、あともう一つだけ。……これから、後宮の女官たちに伝えて。……『今夜、月が楼閣に触れる時、死んだはずの奇術師が蘇る』ってね」


「蘭瑛……。うん! 絶対、みんなに伝える。あんたが負けるわけないもんね!」


 小翠の顔から、恐怖は消えていた。

 目の前にいるのは、捕らわれの身となった可哀想な女の子ではない。

 これから世界を欺き、真実を暴き出す、不敵なマジシャンだ。


 蘭瑛は、暗闇の中で最後の手順を確認するように、空中で指先を躍らせた。

 あとは、あの「不器用な共犯者」が、最後のピースを届けてくれるのを待つだけだった。

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