第8話 月曜日、いつもより少しだけ
月曜日の朝。
教室に入ると、いつものようにクラスメイトたちの声が聞こえてきた。
「おはよう」
「おー、おはよ」
そんな挨拶を交わしながら、自分の席へ向かう。
すると、隣の席に座っていた水瀬が顔を上げた。
「あ、おはよう。桐谷くん」
「おはよう、水瀬」
「土曜日、ありがとうね」
「ん? ケーキ屋のこと?」
「うん。すごく楽しかったから」
水瀬はそう言って、嬉しそうに笑った。
「俺も楽しかったよ」
「……ほんと?」
「ほんとだよ」
「そっか。よかった」
水瀬は安心したように頷いた。
その反応が少し意外だった。
「もしかして、つまらなかったらどうしようとか思ってた?」
「……ちょっとだけ」
「なんでだよ」
「だって、二人で出かけるの初めてだったし」
そう言われて、俺は納得した。
確かに、学校の外で水瀬と二人きりになるのは初めてだった。
「気にしなくていいのに。普通に楽しかったから」
「……うん」
水瀬は少し照れたように笑った。
ちょうどそのとき、教室の入り口から男子の声がした。
「桐谷、おはよう!」
振り向くと、クラスメイトの佐藤が手を振っていた。
「おはよう」
佐藤は俺の席まで来ると、机に鞄を置いた。
「そういえば、土日何してた?」
「普通に出かけてたよ」
「へえ、どこに?」
「駅前」
「駅前? 何しに?」
「ケーキ食べに」
「ケーキ?」
佐藤は少し意外そうな顔をした。
「お前、甘いもの好きだったっけ?」
「まあ、普通に食べるよ」
「へえ。俺なんて土日ずっと家でゲームしてたわ」
「それはそれでいいんじゃないか?」
「まあな」
佐藤は笑いながら、自分の席へ戻っていった。
その会話を聞いていた水瀬が、こちらを向く。
「佐藤くんと、よく話すの?」
「最近はたまにかな。あいつ、結構話しかけてくるんだよ」
「そうなんだ」
「水瀬は?」
「え?」
「仲いい子とかいるだろ?」
そう聞くと、水瀬は少し考えた。
「いるよ。田中さんとか」
「田中?」
「うん。隣の列にいる子。よく話しかけてくれるんだ」
俺は教室を見回した。
すると、少し離れた席にいた女子が、水瀬に向かって手を振っていた。
「梓ー! おはよう!」
「あ、おはよう!」
水瀬も笑顔で手を振り返す。
普段、俺と話しているときとは少し違う雰囲気だった。
学校では近寄りがたいと思われている水瀬だけど、仲のいい友達とは普通に笑い合うらしい。
そんな当たり前のことに、今さら気づいた。
「……何?」
水瀬が不思議そうに俺を見る。
「いや、楽しそうだなと思って」
「え?」
「友達と話してるとき」
「ああ……」
水瀬は少し恥ずかしそうに視線をそらした。
「普通だよ」
「そうか?」
「そうだよ」
そう言って、水瀬は小さく笑った。
やがてチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まった。
俺は教科書を机の上に出しながら、いつものように前を向いた。
ただ、隣から時々聞こえてくる水瀬の声が、少しだけ気になっていた。
⸻
昼休み。
弁当を広げていると、水瀬がこちらを向いた。
「桐谷くん、今日も一緒に食べていい?」
「もちろん」
「ありがとう」
水瀬は弁当を持って、俺の前の席に座った。
「そういえば、昨日ね」
「昨日?」
「ケーキ屋で撮った写真、見返してたんだ」
「写真撮ってたもんな」
「うん。桃のケーキ、やっぱりおいしそうだった」
水瀬はスマホを取り出して、画面をこちらに向けた。
そこには、きれいに盛りつけられた桃のケーキが写っていた。
「おお、きれいに撮れてるな」
「でしょ?」
水瀬は嬉しそうに笑った。
「これ、友達にも見せたんだ」
「そうなんだ」
「そしたら、どこのお店か聞かれちゃった」
「人気なんだな」
「うん。今度、一緒に行こうって話になったよ」
「へえ、いいじゃん」
そう答えると、水瀬は少しだけこちらを見た。
「……桐谷くんも、また行こうね」
「うん。また行こう」
俺がそう答えると、水瀬は安心したように笑った。
そのとき、近くを通りかかった女子が声をかけてきた。
「梓、何の話?」
「あ、由奈。土曜日に行ったケーキ屋の話だよ」
田中さんと呼ばれていた女子だった。
田中由奈は俺と水瀬を交互に見て、にこっと笑った。
「へえ、二人で行ったんだ?」
「うん」
水瀬は素直に頷いた。
「いいなあ。私も甘いもの食べたい!」
「今度、一緒に行こうよ」
「ほんと? 約束ね!」
「うん」
二人は楽しそうに話していた。
俺は弁当を食べながら、その様子を眺める。
すると、由奈がこちらを向いた。
「桐谷くんも、甘いもの好きなんだ?」
「まあ、普通には」
「じゃあ、今度みんなで行こうよ。おいしいお店、ほかにも知ってるんだ」
「いいね。機会があったら」
「よし、決まり!」
由奈は満足そうに頷くと、自分の席へ戻っていった。
「……明るい子だな」
俺がそう言うと、水瀬が笑った。
「うん。田中さん、いつもあんな感じだよ」
「水瀬とも仲いいんだな」
「うん。話しやすいから」
そう答える水瀬の表情は、いつもより少し柔らかかった。
俺はそれを見て、なんとなく安心した。
水瀬にも、俺と過ごす時間以外に、友達と楽しむ時間がある。
当たり前のことだけど、これからもそういう時間を大切にしてほしいと思った。
⸻
放課後。
帰りのホームルームが終わると、クラスメイトたちが次々と教室を出ていった。
俺も鞄を持ち、帰る準備をする。
「桐谷くん」
隣から声がした。
「ん?」
「今日、一緒に帰らない?」
「いいよ」
俺が答えると、水瀬は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、準備するね」
水瀬が鞄を持つのを待って、俺たちは教室を出た。
廊下を歩いていると、前を歩いていた佐藤が振り返った。
「桐谷、帰るの?」
「ああ」
「じゃあな。また明日!」
「おう、また明日」
佐藤は手を振り、階段を下りていった。
俺たちも昇降口へ向かう。
外に出ると、少し涼しい風が吹いていた。
「もう秋っぽくなってきたな」
俺が呟くと、水瀬も空を見上げた。
「そうだね。朝もちょっと寒かったし」
「そろそろ上着が必要かもな」
「うん。……桐谷くんは寒がり?」
「いや、普通だと思うけど」
「そっか」
水瀬は少し笑った。
それから、しばらく二人で歩いた。
特別な話をしているわけではない。
授業が難しかったとか、今日の昼ご飯がおいしかったとか。
そんな話をしているだけなのに、気まずさはなかった。
むしろ、沈黙になっても無理に話題を探す必要がない。
それが、少し心地よかった。
「……ねえ、桐谷くん」
「ん?」
「土曜日のことなんだけど」
「ケーキ屋?」
「うん」
水瀬は少しだけ言いにくそうにしたあと、こちらを向いた。
「また、二人で出かけてもいい?」
「もちろん。俺も楽しかったし」
「……ほんと?」
「何回聞くんだよ」
思わず笑ってしまう。
水瀬は少し頬を膨らませた。
「だって、気になるんだもん」
「楽しかったって言ってるだろ」
「……うん」
水瀬は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また誘うね」
「ああ」
「……ねえ、桐谷くん」
「ん?」
水瀬が少しだけ言いにくそうに、俺の顔を見た。
「一つ、お願いしてもいい?」
「お願い?」
「うん。その……」
水瀬は視線を落とし、指先をそっと動かした。
「もう少し、仲良くなりたいなって思って」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
水瀬は慌てて顔を上げる。
「あっ、もちろん今も仲いいと思ってるよ! でも、せっかく二人で出かけたりもしたし……」
「うん」
「だから、その……呼び方を変えてみない?」
「呼び方?」
「うん。いつまでも名字で呼ぶのも、ちょっと距離がある感じがするから……」
そう言って、水瀬は恥ずかしそうに頬を赤くした。
なるほど。
確かに、二人で出かけるくらいには仲良くなったのに、呼び方はまだ出会った頃と変わっていない。
「……いいんじゃないか?」
「本当?」
「ああ。俺も、もう少し気軽に話せたらいいなって思ってたし」
水瀬の表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ……私のこと、梓って呼んでくれる?」
「……梓?」
試しに名前を呼んでみる。
たった二文字なのに、いつもと違う感覚がした。
「……うん」
梓は嬉しそうに微笑んだ。
「なんだか、ちょっと照れるね」
「自分で言い出したんだろ」
「そ、そうだけど……!」
梓は恥ずかしそうに俯いた。
そんな反応を見て、俺も少し照れくさくなる。
「じゃあ、俺も直人でいいよ」
「……直人くん?」
「ああ」
梓は小さく口の中で名前を繰り返した。
「……直人くん」
「……なんだよ」
「ううん。呼んでみただけ」
そう言って、梓は嬉しそうに笑った。
「これからは、直人くんって呼ぶね」
「おう。俺も梓って呼ぶよ」
「うん!」
梓の笑顔を見ていると、こちらまで自然と頬が緩んでしまう。
呼び方が変わっただけ。
それなのに、さっきよりも少しだけ距離が近くなった気がした。
「……じゃあ、また明日ね。直人くん」
「ああ。また明日、梓」
初めて名前で呼び合った帰り道。
いつもと同じ景色なのに、なんだか少しだけ特別に感じられた。
⸻
【美咲視点】
翌日のことを考えながら、私はスマホを手に取っていた。
直人とは、今日もほとんど話さなかった。
朝、教室で顔を見たときも。
昼休みに遠くから見かけたときも。
声をかけようと思えば、かけられたはずだった。
でも、結局何もできなかった。
以前なら、何も考えずに話しかけていたのに。
「……なんでだろう」
小さく呟く。
直人が水瀬さんと仲良くしていることは知っている。
二人でケーキ屋に行ったことも、今日、一緒に帰っていたことも。
別に、私が口を出すことじゃない。
直人は私の恋人ではないのだから。
そもそも、私は直人の告白を断った。
それなのに。
二人が楽しそうにしているのを見ると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「……私、何を気にしてるんだろう」
答えは出なかった。
直人は、ずっと私の隣にいた。
それが当たり前だった。
でも最近は、その当たり前が少しずつ変わっている気がする。
私はスマホを机に置いた。
明日こそ、普通に話しかけてみよう。
そう思いながら、私は自分の気持ちにまだ名前をつけられずにいた。




