第9話 今日、待っててよかった
昼休み。
「直人くん、ちょっといい?」
隣の席から、梓がノートを差し出してきた。
「ん? どうした?」
「この問題なんだけど……答えは出たんだけど、どうしても途中の計算が合わなくて」
ノートを覗き込むと、そこには数学の問題が丁寧に解かれていた。
梓は普段から成績がいいらしい。授業中も先生の話を真剣に聞いているし、ノートもきれいにまとまっている。
そんな梓が悩む問題なら、俺にも難しいかもしれない。
そう思いながら、途中の式を確認していく。
「あ、ここだ」
「えっ、どこ?」
「この符号。ここでマイナスをつけ忘れてる」
「あ……本当だ」
梓は自分のノートを見直し、小さく肩を落とした。
「ちゃんと確認したつもりだったのに……」
「まあ、こういうミスは誰にでもあるだろ」
「直人くんでも、こういうミスする?」
「するよ。テストで見直したら、なんでこんな間違いしたんだって思うこともあるし」
「ちょっと安心した」
梓がほっとしたように笑う。
「俺って、そんなに完璧に見える?」
「うん。少なくとも、私にはそう見えるかな」
「それは買いかぶりすぎだって」
「そうかな?」
梓は首を傾げながら、ノートに間違えた箇所を書き直した。
その横顔を見ていると、ふと気になったことがある。
「梓って、苦手なこととかあるの?」
「え?」
「いや、勉強もできるし、何でもそつなくこなせそうだからさ」
梓は少し考えるように視線を上げた。
「……あるよ。苦手なことくらい」
「へえ。意外だな」
「意外って何?」
「いや、悪い意味じゃなくて」
慌てて言い直すと、梓は小さく笑った。
「それは……秘密」
「なんだよ、それ」
「いつかね」
そう言って、梓はノートを閉じた。
そのとき、予鈴が鳴った。
「あ、もう時間だ」
「ほんとだ。じゃあ、また分からないところがあったら聞いていい?」
「もちろん。俺に分かる範囲なら」
「ありがとう、直人くん」
梓はうれしそうに笑って、自分の席へ戻っていった。
その笑顔を見送ってから、俺も次の授業の準備を始めた。
* * *
放課後。
帰り支度をしていると、健太が机の横にやってきた。
「直人、悪い。物理の問題、ちょっと教えてくれない?」
「いいけど。どこ?」
「この辺。解説読んでも、いまいち分からなくてさ」
差し出されたノートを見る。
どうやら、今日の授業で扱った問題らしい。
「ここは公式を使うんだけど、その前にこの式を整理して……」
「え、なんでそうなるんだ?」
「いや、だからここの数字を先に移項して……」
「待って。もう一回頼む」
「お前、ちゃんと授業聞いてたか?」
「聞いてたよ。途中までは」
「途中までかよ……」
思わず笑ってしまう。
結局、俺は健太と一緒に問題を解き直すことになった。
その途中、ふと隣の席に目を向けた。
梓は鞄を机の上に置き、何かを確認しているところだった。
「あれ、梓は帰らないの?」
声をかけると、梓が顔を上げた。
「うん。ちょっと待ってる」
「待ってる?」
「直人くん、まだ勉強教えてるでしょ?」
「ああ、まあ……でも、時間かかるかもしれないぞ?」
「大丈夫。私もまだ帰る準備が終わってないから」
そう言って、梓は鞄の中を整理し始めた。
本当に準備が終わっていないのか、それとも俺に合わせてくれているのか。
少し気になったけれど、深く聞くのも変な気がした。
「そっか。じゃあ、もうちょっと待ってて」
「うん」
梓は穏やかに頷いた。
それから俺は、健太が理解できるまで問題を説明した。
「なるほど! そういうことか!」
「やっと分かったか」
「助かった。これで次のテストも何とかなりそうだ」
「いや、まだ復習しろよ」
「分かってるって。じゃあ、また明日な!」
健太はノートを鞄にしまい、教室を出ていった。
時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「ごめん、梓。待たせたな」
「ううん。大丈夫だよ」
梓は鞄を肩にかけ、俺の隣に並んだ。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
* * *
駅までの道を、二人で歩く。
夕方の空は少しずつ赤く染まり、帰宅する生徒たちの声があちこちから聞こえていた。
「直人くんって、優しいよね」
不意に梓が言った。
「え? 急にどうした?」
「さっき、健太くんに勉強を教えてたでしょ?」
「ああ。分からないって言ってたからな」
「自分も早く帰りたかったんじゃない?」
「まあ、そりゃ少しは。でも、分からないまま帰るのも嫌だろうし」
「そっか……」
梓は前を向いたまま、少しだけ笑った。
「そういうところ、いいなって思う」
「そういうところ?」
「うん。自分では普通だと思ってることでも、ちゃんと相手のことを考えてるところ」
「……そんな大したことじゃないよ」
「私は、そういうのって大事だと思う」
梓の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
俺は何と返せばいいのか分からず、頭を掻いた。
「なんか、改めて言われると恥ずかしいな」
「ふふ。ごめんね」
「いや、謝らなくていいけど」
梓は小さく笑った。
その笑顔を見ていると、不思議とこちらまで気持ちが軽くなる。
最近、梓と話す時間が増えた。
最初は、隣の席になったから話すようになっただけだった。
けれど今は、学校で梓と話すことが、少しずつ当たり前になっている。
それが嫌じゃない。
むしろ、楽しいと思っている自分がいた。
駅に着き、改札の前で足を止める。
「じゃあ、私はこっちだから」
「うん。また明日」
「うん。また明日ね、直人くん」
梓は軽く手を振って、改札へ向かおうとした。
けれど、数歩進んだところで、ふと振り返った。
「直人くん」
「ん?」
「今日、待っててよかった」
一瞬、言葉の意味を考えてしまった。
梓は少し照れたように笑い、それ以上は何も言わずに改札を通っていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、しばらく立ち尽くしていた。
――今日、待っててよかった。
その言葉が、なぜか耳に残っていた。
「……なんだよ、もう」
小さく呟いて、俺も改札へ向かう。
明日も、梓と話せる。
そう思うと、明日学校へ行くのが、いつもより少しだけ楽しみになった。




