【第3話】温室の夕立と、溢れ出した熱い本音
初夏の風が心地よく吹き抜けるアシュレイ子爵領。
車寄せに到着した馬車のステップを降りた瞬間、リリアーナを出迎えたのは、玄関ポーチの前で直立していたカイルの姿だった。
いつもと変わらぬ隙のない濃紺の上着。
だが、その手には真っ白なレースの日傘が握られていた。
「……ようこそ、リリアーナ。日差しが強い、これを使え」
カイルは日傘をバッと広げると、リリアーナの頭上へとそっと差し掛けた。
その丁寧な仕草に、リリアーナの胸がふわりと温かくなる。
「ありがとうございます、カイル様。ご自身でお出迎えしてくださるなんて」
「婚約者を迎えるのに、使用人に任せられるか。……さあ、こちらだ」
カイルは歩き出すと、リリアーナの歩幅に合わせ、驚くほどゆっくりと歩調を緩めた。
砂利道に足を取られそうになると、すっと鍛え抜かれた逞しい腕を差し出し、自然にエスコートしてくれる。
案内された子爵邸の奥庭には、息を呑むような光景が広がっていた。
なだらかな丘一面に、赤、白、黄、深紅――何千輪もの見事なバラが咲き誇り、甘美な香りが風に乗って漂っている。
「まあ……! なんて素晴らしいバラ園……! まるでおとぎ話の世界のようですわ!」
リリアーナが目を輝かせると、カイルは耳を少し赤くしながら、誇らしげに口元を綻ばせた。
「気に入ってくれたならよかった。……この庭は、俺が執務の合間に手入れをしているんだ」
「カイル様ご自身で!? まあ、土いじりもおできになるのですか?」
「ああ。植物は嘘をつかないからな。手をかけた分だけ、素直に美しい花を咲かせてくれる。……君に見せたかったのは、この花だ」
カイルが足を止めたのは、大理石の噴水の脇に咲く、一房の特別なバラの前だった。
淡い桜色の花びらの縁が、まるで粉砂糖をまぶしたかのように真っ白にグラデーションを描いている、極めて希少な品種。
「『シュクレ・ローズ』……砂糖のバラ、という品種だそうだ」
カイルは照れ隠しに咳払いを一つすると、視線をそっと逸らしながら呟いた。
「可憐で、甘やかで、見ているだけで心が温かくなる。……君の雰囲気に、とてもよく似ていると思ってな」
「カイル様……」
至近距離で囁かれた言葉に、リリアーナの頬がポッと赤く染まる。
不器用な男が、自分のために選んでくれた花。
その真摯な想いが嬉しくて、胸の奥がきゅんと甘く痺れた。
その時だった。
ゴロゴロ……!
遠くの空の彼方で、重い雷鳴が轟いた。
見上げれば、先ほどまでの抜けるような青空は一瞬にして鉛色の黒雲に覆われ、冷たい突風がバラ園を激しく揺らし始めた。
「天気が急変したな。……まずい、夕立が来るぞ!」
カイルが叫んだ瞬間、バタバタバタッ! と大粒の激しい雨が降り注ぎ始めた。
本邸までは歩いて数分かかる。この雨脚では、あっという間にずぶ濡れになってしまう。
「リリアーナ、走れるか!?」
「は、はい……!」
カイルは日傘を盾のように構え、リリアーナの細い腰をしっかりと抱き寄せると、すぐ近くに見えていたガラス張りの温室へと駆け込んだ。
バタンッ!!
重厚な木製扉が閉ざされ、二人は温室の中へと滑り込んだ。
ザーッ……!!
激しい雨が、天井のガラス屋根を激しく打ち叩いている。
温室内には南国の巨大なシダや熱帯の花が青々と茂り、外の冷たい嵐とは隔絶された、濃密な緑の香りと静寂に包まれていた。
「ふぅ……間一髪でしたわね」
リリアーナが息を整えながら胸元を撫で下ろした。
だが、走った勢いで跳ねた雨粒が、リリアーナの淡いラベンダー色のドレスの肩口や袖を濡らし、薄い生地が肌に張り付いていた。
ヒヤリとした冷気に、リリアーナは思わず身を震わせる。
それを見たカイルの表情が、一瞬で険しく引き締まった。
「……寒そうじゃないか」
カイルは何の躊躇いもなく、自分の濃紺のフロックコートを脱いだ。
「えっ、カイル様!?」
止める間もなく、温かく大きな上着が、リリアーナの華奢な肩へとふわりと羽織らされた。
カイルの体温がたっぷりと残った上着。そこから立ち上る、爽やかな石鹸の香りが、リリアーナの鼻腔をくすぐる。
「カイル様、上着を脱いだら、あなたが風邪を引いてしまいます!」
「君が風邪を引くより、何万倍もマシだ」
カイルはシャツ一枚の姿になりながらも、リリアーナの前で両手を伸ばし、上着の襟元をキュッと整えてくれた。
至近距離で重なる視線。
雨で僅かに濡れたリリアーナの亜麻色の後れ毛が、白く透き通るようなうなじに張り付いている。
カイルのスカイブルーの瞳が、その白い肌を射抜くように凝視した。
カイルの喉仏が、激しく上下する。
互いの熱い吐息が触れ合うほどの距離に、リリアーナの心臓がトクトクと激しく脈打った。
雨音だけが響く温室の密室。
リリアーナはカイルの優しい瞳を見つめながら、ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた疑問を、そっと口にしていた。
「……カイル様」
「何だ?」
「私……ずっと、お聞きしたかったことがございますの」
リリアーナはカイルの大きな上着の袖をぎゅっと握りしめた。
「最初のお茶会から、カイル様はいつも眉間に深い皺を寄せて、私と目を合わせてくださいませんでした。口数も少なくて……。私、ずっと不安だったのです。あなたはこの政略結婚を嫌がっていて、私のような地味で退屈な女を、心の底から嫌っていらっしゃるのではないかと……」
ずっと言えなかった本音。
嫌われていると怯えながらも、彼を傷つけたくなくて胸にしまっていた想い。
それを聞いた瞬間――カイルの表情が、雷に打たれたように凍りついた。
スカイブルーの瞳が、これ以上ないほど見開かれ、苦悶と絶望の色に染まり上がる。
「……嫌って、いる……? 俺が……君を……?」
掠れた、信じられないものを見るような声だった。
「ち、違う……! 違う、断じて違う……!!」
カイルは叫ぶと、衝動を抑えきれなくなったようにリリアーナの両腕を掴み、そのまま温室の太い柱の前へと彼女を引き寄せた。
「カイル様……!?」
背中が温室の柱に触れ、カイルの逞しい胸板がリリアーナを完全に閉じ込める。
見上げれば、カイルの顔は激しい感情で紅潮し、その目には今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいた。
「嫌っているなんて……天地神明に誓って、絶対に違う……!」
カイルは震える両手でリリアーナの頬をそっと包み込んだ。
その掌は熱く、狂おしいほどに震えている。
「半年前、最初に縁談の肖像画を見た時から……いや、神殿で君を初めて見かけた時から、俺は君が好きでたまらなかったんだ……!」
堰を切ったように溢れ出す、カイルの熱い本音。
「君の柔らかな笑顔も、穏やかな声も、すべてが俺にとって眩しすぎて、直視できなかったんだ! 目の前に君がいるだけで心臓が破裂しそうになって、顔が赤くなるのを隠すために、必死で表情を強張らせていただけなんだよ……!」
「え……? 顔が、赤くなるのを……?」
「そうだ! 君が話しかけてくれるたび、嬉しくて叫び出したいくらいだった! だが、口を開けば情けない声が出そうで、必死に一言返すのが限界だったんだ! 触れたら壊してしまいそうなほど可憐な君を前にして、俺のような無骨な男が近寄っていいのかと、毎日自分を恥じていたんだ……!」
冷酷な氷の子爵と呼ばれた男が、泣きじゃくる少年のように、リリアーナの首筋に顔を埋めて激しく息を吸い込んだ。
「嫌うどころか……俺は君に狂っているんだ、リリアーナ……! 誰よりも、世界中の何よりも……君を愛しているんだ……!」
その切実すぎる愛の告白に、リリアーナの視界が歓喜の涙でいっぱいに滲んだ。
すれ違いも、不安も、冷たさへの恐怖も、すべては彼があまりにもリリアーナを愛しすぎていたからこその空回りだったのだ。
「カイル様……!」
リリアーナは自らの両腕を、カイルの広い背中へと力強く回したのだった。




