【第2話】手作りクッキーの奇跡と、隠せぬ赤面
ウェストブルック伯爵邸の厨房は、夜明け前から甘く芳醇な香りに包まれていた。
大きな銅鍋の中で、リリアーナは木べらを静かに動かしていた。
鍋の中の特選発酵バターが、熱を受けてパチパチと小さな音を立てる。泡が細かくなり、澄んだ黄金色から淡いヘーゼルナッツのような褐色へと変わっていく瞬間を見逃さない。
「お嬢様、素晴らしい手際でございますな。焦がしバターの香りが実に見事です」
後ろで見守っていた初老の料理長が、感嘆の声を漏らした。
「ふふ、ありがとうございます。バターの水分をしっかり飛ばして香ばしさを凝縮させると、焼き上がりのサクサク感が格段に増すのです」
リリアーナは粗熱を取ったバターに、細かく削り落とした最高級のバニラビーンズ、微粒子の甜菜糖、そしてふるいにかけた薄力粉を丁寧にさっくりと混ぜ合わせた。
カイルの喜ぶ顔が見たい。
ただそれだけの一途な想いが、彼女の指先を動かしていた。
冷やした生地を台の上に広げ、抜き型で一つ一つ丁寧に形を作っていく。
星の形、可憐な野ばらの形、そして幸運を呼ぶ四葉のクローバーの形。
天板に並べ、予熱したオーブンへと滑り込ませる。
しばらくすると、甘く香ばしい匂いが厨房いっぱいに立ち上り、こんがりときつね色に焼き上がった。
「あつっ……!」
天板を取り出す際、うっかり端に右手の人差し指が触れてしまった。
「お嬢様、大丈夫ですか!?」
「ええ、少し掠っただけです。すぐに冷水で冷やしましたから、平気ですよ」
指先がほんのりと赤くなっていたが、リリアーナは気に留めなかった。
それよりも、焼き上がったクッキーの出来栄えがあまりにも完璧で、胸が高鳴っていたのだ。
冷ましたクッキーを、淡い水色のシルクリボンをかけた小さな木箱へと大切に詰め込んだ。
そして――迎えた土曜日の午後。
サンルームの扉が開き、アシュレイ子爵カイルが姿を現した。
黒革のブーツを鳴らし、濃紺のフロックコートを隙なく着こなした長身の青年。
だが、その顔立ちは先週にも増して厳しく強張っていた。
眉間には深い縦皺が刻まれ、スカイブルーの瞳は周囲を警戒するように鋭く尖っている。
「……カイル様、ようこそいらっしゃいました」
「……ああ」
席に着いたカイルは、やはりリリアーナと目を合わせようとせず、テーブルの木目を睨みつけた。
だが、リリアーナにはもう分かっていた。
彼が不機嫌なのではなく、緊張のあまり表情が固まっているだけなのだと。
淹れたての紅茶が運ばれ、給仕が下がった後、リリアーナは膝の上に置いていた、水色のリボンをかけた木箱をテーブルの上へとそっと差し出した。
「カイル様。先週お約束いたしました、私が焼いたクッキーをお持ちいたしました。……もしよろしければ、お味見していただけますでしょうか」
カイルの肩が、ピクリと跳ね上がった。
視線が、テーブルの上の木箱へと吸い寄せられる。
「……これは」
「焦がしバターとバニラを贅沢に使った、シンプルな型抜きクッキーです。お口に合うか分かりませんが……」
カイルは息を呑み、木箱を凝視したまま数秒間固まっていた。
やがて、手袋を外した大きな指先が、恐る恐るリボンへと伸びる。
その指先が、微かに震えていた。
まるで、古代の秘宝の封印を解くかのような異様な慎重さでリボンをほどき、木箱の蓋をパカリと開ける。
ふわり――。
濃厚なバターとバニラの甘い香りが、サンルームの空気を満たした。
箱の中には、黄金色に美しく焼き上がった星や花のクッキーが、端正に並んでいる。
カイルの喉仏が、ゴクリと大きく動いた。
「……いただく」
カイルは四葉のクローバーのクッキーを一枚、壊れやすい硝子細工をつまむかのように慎重につまみ上げた。
そして、眉間にこれ以上ないほど険しい皺を寄せ、意を決したように口元へと運んだ。
サクッ……。
静かな部屋に、軽やかで心地よい音が響いた。
焦がしバターとバニラの香りが、テーブル越しにふわりとリリアーナのところまで漂ってくる。
その瞬間――カイルの動きが完全に止まった。
スカイブルーの瞳が限界まで見開かれ、咀嚼の途中でピシリと硬直する。
ごくり、と飲み込んだ後、カイルは突如として両手で顔を覆い、そのままテーブルへと深々と突っ伏してしまったのだ。
「……っ……!!」
低く苦悶に満ちたような唸り声が、指の隙間から漏れ聞こえる。
それを見たリリアーナは、血の気が引くのを感じた。
「か、カイル様……!? お、お口に合いませんでしたか……!? 申し訳ございません、すぐに下げます……!」
やはり甘すぎたのだろうか、それとも焼き加減が悪かったのだろうか。
リリアーナが慌てて木箱を引き寄せようと手を伸ばした、その時だった。
ガシッ!
カイルの逞しい手が電光石火の速さで伸び、リリアーナの右手首を掴んで引き止めた。
「待て……! 下げるな……!」
顔を上げたカイルの姿を見て、リリアーナは息を呑んだ。
カイルの顔は、額から頬、耳の先、首筋に至るまで、完全に熟れた林檎のように真っ赤に染め上がっていた。
そして、そのスカイブルーの瞳には、じわりと大粒の感動の涙が潤んでいたのだ。
「カイル……様……?」
「……美味すぎる……」
掠れた、震える声だった。
「な、何だこれは……!? こんなに美味いもの、俺は……生まれて初めて食べた……!」
カイルは木箱を自分の胸元へ引き寄せると、まるで宝物を抱え込むようにして、二枚目の星のクッキーを口に運んだ。
サクサク、と夢中で咀嚼するたびに、彼の端正な顔立ちがとろけるように緩んでいく。
「サクサクしていて、香ばしくて……口の中でふわりと溶けて、優しい甘さが広がる……。アシュレイの家では、幼い頃から『軟弱な甘味など武門の恥だ』と厳しく禁じられていた。父の目を盗んで砂糖を舐めるのが関の山だったんだ……。こんな、こんな温かくて美味い菓子を……君は、俺のために焼いてくれたのか……!?」
目をキラキラと輝かせ、三枚目、四枚目と口へ運ぶカイルの姿は、冷酷な氷の子爵などではなく、ただの無邪気で純粋な甘党の青年そのものだった。
そのあまりの落差と愛らしさに、リリアーナの胸が締め付けられるように熱くなる。
「よ、喜んでいただけて、本当によかったです……!」
リリアーナが心からの笑みをこぼすと、カイルはハッと我に返ったようにクッキーを口元で止めた。
そして――カイルの視線が、リリアーナの右手に留まった。
人差し指の先の、ほんのり赤くなった小さな火傷の跡。
次の瞬間、カイルの顔から血の気が引いた。
「……リリアーナ。その手は、どうした」
「え? あ、これは……オーブンから天板を取り出す時に、少し触れてしまっただけで……」
「触れただけだと……!?」
カイルは椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がると、テーブルを回り込み、リリアーナの隣へと膝をついた。
そして、壊れ物を扱うような慎重さで、リリアーナの右手を両手でそっと包み込んだのだ。
「カ、カイル様……!?」
「冷水で冷やしただけか? 薬は塗ったのか? なぜすぐに医者を呼ばない!」
スカイブルーの瞳を激しく揺らし、取り乱すカイル。
カイルは上着の内ポケットから、上質な絹のハンカチと、携帯用のハーブ軟膏の小瓶を取り出した。
指先に軟膏をすくい、リリアーナの火傷の痕へと、極めて優しく、丁寧に塗り広げていく。
ヒンヤリとした軟膏の冷たさと、カイルの大きな掌の熱い体温が、同時に伝わってくる。
「カイル様、本当に大した傷ではございませんのに……」
「大した傷じゃないわけがあるか……!」
カイルは悔しそうに眉根を寄せ、リリアーナの手を胸元へ抱き寄せた。
「俺のために菓子を焼いて、君の大切な手に傷を負わせるなんて……! こんなに白くて柔らかな君の手を、俺が傷つけさせたも同然じゃないか……!」
至近距離から注がれる、狂おしいほど熱く真摯な眼差し。
耳元にかかる吐息に、リリアーナの心臓が早鐘のように高鳴り、顔が真っ赤に火照っていく。
カイルはリリアーナの指先をそっと唇に近づけると、触れるか触れないかの距離で優しく息を吹きかけた。
「……痛むか?」
「い、いえ……ちっとも、痛くありません……」
恥ずかしさで消え入りそうな声で答えると、カイルは心底安堵したように深く息を吐き出した。
やがて、カイルは残ったクッキーの木箱の蓋を慎重に閉め、大事そうに両手で抱え込んだ。
「……残りは、持って帰っていいか?」
「もちろんでございます。カイル様のために焼いたのですから」
「ありがとう。……屋敷へ持ち帰り、一日一枚ずつ、大切に食べる」
「ふふ、湿気てしまいますから、二、三日のうちにお召し上がりくださいね」
リリアーナが笑うと、カイルは耳を真っ赤にしながらも、小さく頷いた。
そして――カイルは照れ隠しに咳払いを一つすると、視線を僅かに彷徨わせながら、ポツリと呟いた。
「あの……リリアーナ」
「はい、カイル様」
「来週の土曜日だが……俺の屋敷へ来ないか。庭園のバラが、ちょうど見頃を迎えているんだ。……君に見せたい花がある」
初めての、カイルからの誘い。
リリアーナの胸が歓喜で跳ね上がり、満面の笑みが咲き誇った。
「はい……! 喜んでお伺いいたします、カイル様!」
夕暮れのサンルームで、二人の視線が甘く重なり合っていたのだった。




