ローリントン翁に孫ができるまでの話 後編
すっかり空気が柔らかくなり、雪の溶け残しも見なくなった春の頃。
カナはちょっとした風邪をひいたようだった。
毎日来ていた訓練室にも食堂にも顔を出さない。
カナは決してうるさい子ではないのに、館から音が消えたように感じた。
こんなことでは、どんなにカナにふさわしい家が見つかっても、養女になど出せなくなってしまう。
いかんなと思いながら、ジョルジはカナの笑顔を待ち侘びる自分を抑えられなかった。
ところが何日経ってもカナは部屋から出てこない。
小間使いのオーガスタが言った。
「お嬢さまは、心の風邪をひかれているように思いますねぇ」
「心の風邪?」
「直接ご覧になってくださいな」
休んでいる婦女子の部屋に入るのはためらわれたが、カナの部屋をノックすると「どうぞ」と応えが返った。
明るい陽光の差し込む部屋。寝台の天蓋の影でカナは体を起こしていた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。もう風邪はすっかり。明日からはまたご一緒に体操もできると思います」
そうにこりと笑ったカナだが、ふっくらとしていた頬からは肉が落ち、目の周りは青黒い。
なにより、いつもキラキラ輝いている明るい茶色の瞳は、今は黒く濁っていた。
どこか辛いのかと尋ねると、どこも辛くないと答える。
食事は食べられているかと聞けば、明日から食べると言う。
体操はもう少し日を置いてと言うと、
「ラカトゥシュの御方に、体操と食事は欠かしてはいけないと言われています。なのにこんなにさぼってしまって。わたしったら駄目ですね」
カナはふふっと笑った。が、声音にはひどく自分を責める響きがあった。
結局、カナはそれからも部屋から出られない日が続いた。
熱はない。咳や鼻水などの症状もない。
なのに、なぜか寝台を出れない。食事もほとんど受け付けない。
カナ本人が1番なぜと思い焦っている様子で、「無理しなくていい」としか言えない。
カナが伏せってから、20日ほども経った頃か。
夜、廊下を通ると、泣き声のようなものが聞こえる。
ジョルジはそっと、カナの部屋に入った。
心配したとおり、カナは寝台で寝ながら泣いていた。
「お母さま、お母さま」と呼びながら。
「お母さま、お兄さま、ごめんなさいごめんなさい」と。
─お嬢さまの"お母さま"とは……
農奴は自分の母をお母さまとは呼ばない。
この時ジョルジは、カナのことがひとつわかった気がした。
しかしなにがわかったところで、なにができるわけでもない。
ジョルジは木偶の坊のように、寝台の横で一晩突っ立っていた。
ジョルジはラカトゥシュに向けて手紙を書いた。
カナの現状について、助言が必要だった。
ラカトゥシュまで使者が行って戻るのにひと月はかかる。
その間、館中の者が思いつく限りのことをした。
料理人は日々、カナが食べられるものを探求した。
家令は女の子が喜びそうなものを次々に手配した。小間使いたちは掃除を名目にカナの部屋へ行き、なにかと楽しい話をした。
カナの部屋から見える庭には、庭師が色鮮やかな花々を植えた。
珍しやかな品を扱う商人も、音楽隊や吟遊詩人も呼んだ。
カナはよく笑い、楽しいと言うが、その笑顔も言葉も無理しているようで、むしろ痛々しい。
どんどん痩せこけ、生気が感じられなくなっていくようだ。
─どうしたらいい?なにか良い方法はないのか?
ジョルジが、想像したこともないことだった。
女の子ひとり元気づけたり、食べさせたりすることがこんなに難しいことだとは。
このローリントンのお館様ともあろう者が!
そして、待ち兼ねた手紙の返事が来た……
雨の降り続く日、ジョルジはカナの部屋を訪れた。
黒い雲に遮られ陽は地上に届かず、せっかく窓を大きくとった部屋も、夜のように暗い。
「気が滅入るような天気ですな」
「本当に。けれど、農民には恵みの雨ですね」
カナはベッドに身を起こし、弱々しく微笑んだ。
ジョルジはベッド横に置かれたスツールに腰をかけた。
「お嬢さま、私の孫になっては下さいませんか?」
唐突な言葉に、カナはぱちぱちと瞬きをした。
「ラカトゥシュの御方は手紙に"貴方の子"と書いてきましたが、さすがにこの年の差ではじいじと孫が妥当かと思いましてな」
70歳と16歳では、曾祖父と曾孫かもしれないが。
カカカと笑うと、カナは曖昧な笑みを浮かべた。
「本当は貴女をどこかの家の養女にと考えていたのです。ですがこんな心配ばかりかけて下さる方は他の家にはやれないと思い始めたのですよ」
カナはじっとジョルジを見た。
そしてそこになにを見たのか、カナは静かに頭を下げた。
「お心遣いありがとうございます。けれど、お館様の孫にはなれません」
「そう言われると思いました。貴女の家族はラカトゥシュ家だからですか?」
ジョルジが言うと、カナはふっと笑った。
「いいえ、お館様。わたしには家族はおりません。神さまはわたしに家族は持ってはならないと仰せなのですもの」
「ほうほう。お可愛らしいお嬢さまを神は独り占めしたいのですな。もし、お嬢さまに家族がいると、神はどうなさるかな?」
「みぃんな、召されてしまうんですよ、お館様。うふふ」
カナは面白い冗談を言ったかのようにクスクスと笑う。
けれどこれは、カナ自身の心の傷を告白したようなものだった。
おそらく心身が健康だったら、カナは決してこんなことは言わなかったに違いない。
心が重病にかかっている今だから聞けたのだ。
「それなら、私はお嬢さまの家族にぴったりですな。なにせもう70歳。明日にも寿命が来る身ですから」
そう言うと、カナははっきりと不快そうな顔をした。
「……お館様」
「もう1度家族を持ってから召されたい、と。これは私がここ数十年願い続けていることでしてな。お嬢さまに断られたら、私の願いは永遠に叶えられないままでしょうなぁ」
「……お館様のご家族は」
「博識のお嬢さまはご存知でしょうが、50年前のロチェスクとの戦いの折、全員神の元に行ってしまいましてな」
カナはきゅっと唇を閉じた。
慰めの言葉を探しているのか、瞳がゆらゆら揺らいだ。
案外わかりやすい子だ、ジョルジは内心笑う。
「妻は農民の娘で、周りの大反対を押し切ってようやっと娶ったのです。娘は床をはいはいし始めた頃でしてな。……まぁ、そんなことを言っても召されたものは仕方ない。別の女をもらって跡継ぎを、とは何度も考えたのですが、どうにもこうにも、でして」
ははっとジョルジは自分の頭を撫でた。
「そんなで私が一人なのは私自身の咎なわけですが、家族がないというのは、こう、冬の風が胸に空いた穴を通り過ぎていくような心地がするもんです」
もう50年。胸の虚はスースーするだけで痛みも感じなくなった。人に傷を見せて同情を買うことだって、何ということもない。
けれど、カナの目からぽろりと溢れた虹色の涙が、ジョルジの胸に染みた。
(もう一押し)
「お嬢さまがいらしてから、この館も明るくなりました。私はつい、娘が成長したらこんなだったろうか。娘が成長すれば、孫も望めただろうか、などと埒にも無いことを考えてしまうのです。世の中に一人、私をじいじと呼んでくれる存在があれば、それだけで……」
「おじいさま!」
カナの高い声が呼んだ。
「おじいさま、と……お呼びしてもよろしいでしょうか?」
ジョルジはぐっと勝利の拳を握った。
「お嬢さま……」
腕を開いてみせると、軽い体が飛び込んできた。きゅうと抱きつかれる感覚。
ぬくい。それに柔らかくて、壊れてしまいそう。
(ああ、覚えがあるな。妻に抱きつかれた時もこんな感じだった……)
50年も前のことを思い出すのには時間がかかる。
しばらくジョルジは昔、小さな娘にしていたように、カナの頭を優しく撫で続けていた。
「ひとつお嬢さまにお伝えしないといけない事がありました」
ジョルジはカナの濡れた頬をそっと撫でて言った。
「お嬢さまの故郷の村の村長が、春の挨拶にやって来た折に聞いたのですが。村にはミィナだかミナだかいう女の子が暮らしているというのです。ミィナ、お嬢さまの妹の名でしたな?」
カナは固まった。
この子は驚きすぎると体が固まったようになり、動けなくなる癖がある。
「………で、でも住民帳には、」
「記入漏れということはままあります。或いは洗礼を受けていないということも」
「洗礼を受けていない!?」
「ああ、しかし、そのミナという子がお嬢さまの妹かどうかもはっきりせずでして。お嬢さまをがっかりさせたくなくてお伝えしなかったのです」
「……」
カナはこの話をどう受け止めればいいかわからない様子で、不安そうな、いつも以上に幼い表情になった。
「実はお嬢さまの村は、最近非常によろしくない。人口も減り、収穫量もかつての半分以下。このまま放っておけば早晩滅ぶだろうという状況でしてな」
「!」
「お嬢さま。万が一妹御が生きているなら、この館に連れてくるが良いでしょう。もし妹御以外にも、お嬢さまが大事に思う者がいるのなら、受け入れますぞ」
「それは。つまり、わたしに村へ行けと?」
「ああ、しかし今のお嬢さまでは行けません。毎日食事をとり体操ができるようになったら、です」
カナは正しく、ジョルジの言うことを理解したようだった。
淀んでいた瞳に光が指す。
まるで待ち侘びた春の陽をやっと見たかのように。
その日からカナは見違えるように元気になっていった。
まるで嵐に折れかけたナデシコの花が、陽の力を借りて、元以上に大きく花びらを広げるように。
愛らしく表情豊かな少女の姿を取り戻すのにそれほどの時はかからなかった。
そして「おじいさま」と甘い声で呼ぶようになった。
「おじいさま、これ、とっても美味しいです」
「おじいさま、いかがですか?」
「おじいさま、見てください!」
カナは優しい子だ。
ジョルジのために幼い孫のように振る舞ってくれている。
ジョルジもおじいさまと呼ばれると、カナが血のつながった実の孫のような錯覚を覚えた。
けれど所詮は、心の傷が絡み合っただけの疑似家族なのだと、ジョルジはわかっていた。
─お嬢さまが本当に求めている家族は……
ラカトゥシュから届いた手紙を思い出す。
『カナの心の風邪を治すために効果的と考えられるのは以下ふたつである。
1.カナを故郷の村に帰すこと。
2.カナに、人を救う役割を与えること』
美しい筆跡でこう書かれていた。
ラカトゥシュの御方という御仁はどうも、手紙と報告書の違いを知らないのではないだろうか。
しかし、カナという人間をよく知っているから書けることでもある。
手紙には続きがあった。
『もはや縁の切れた娘だが、近況を知らせてくれたことに感謝する。
心ばかりの謝金を使者に渡す。入り用なものに使っていただくように 』
ラカトゥシュに送った使者は手紙と木箱を持ち帰った。
木箱にきっちりと隙間なく入った金貨は、ローリントンの地の全ての民を1年養えるほどの量だった。
もはや縁の切れた娘。
その言葉の意味を、ジョルジは考えずにいられなかった。
カナが嬉しそうに、時に切なそうに呼ぶ"ラカトゥシュの御方"。
カナのために体操を考え、食事を欠かさないようにと諭したという女性。
─家族か…
ジョルジの胸が鈍く痛んだ。
愛おしいからこそ、手放さなければいけないこともある。
明日は、故郷の村に帰るカナを笑って送り出さなければいけない……
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ジョルジ・デメトリウス=ローリントン様
カナは元気ですか?病気していませんか?
少しは背が伸びたでしょうか?
故郷の村でちゃんと栄養あるものを食べられているのでしょうか?
返事を待っています。
追伸 しつこいようですが、私たちが文通していることは、カナには秘密です。
リヤ・アナスタシア=ラカトゥシュ
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あの短くて、礼儀も説明もない手紙が届いてから、1年半。
何度かカナの近況を知らせる手紙を出したら、向こうから手紙を催促する手紙が届くようになった。
─文通のつもりだったのか、ラカトゥシュの御方は……
ジョルジはため息をついた。
さて、なんと返事したものか。
先ほど、ジョルジの愛しい孫が1年ぶりに館に帰ってきたのだ。
城の役人一行という、余計なおまけを引き連れて。
そしてふたりきりになるやいなや、
「お願いです。おじいさま!」
可愛らしく手を組んでおねだりされた。
もちろん孫におねだりされるのは、じいじの誉れである。
しかしきけることときけないことがある。
「新しい村長のロイドはすっごく頑張っています。妹のミィナも村で生きていきたいんだそうです。どうかもうしばらく、村を見捨てず助けてやってください」
カナがそう言うので、頷いた。
なにせ、ラカトゥシュから預かった金貨はまだ半分も使っていない。
村のひとつやふたつカナの好きにして構わない。
しかし。
「ペレシュク城に行かせてください」
そのおねだりは聞けない。
決死の想いを込めた瞳で言われても、聞けるわけがない。
孫を狙う蛇が待つような場所に、行っておいでと言うじいじがいるだろうか。
……ラカトゥシュとの文通(?)のおかげで、カナを取り巻く事情をジョルジはすでに知っているのだ。
けれど、望みを諦めろと言えば、またカナの心は病んでしまうかもしれない。
ジョルジは悩みに悩み、ペンを取った。
サラサラとラカトゥシュの御方への返事を書く。
貴女の娘が母に会いたいがため暴走しています。何とかしてください、と。
こうして、おじいさまとお嬢さま、の関係になったというお話でした。
久しぶりにミィナの名前が出せて嬉しい♪
次の舞台はとうとう城市町です。
それなりに盛り上がる予定ですので、ぜひ引き続き読んでやってくださいm(__)m




