八十一話 広がる不安
湯けむり亭。
今日も、大勢の客で賑わっていた。
「いやぁ、やっぱりここの湯は最高だな!」
「新しい露天も広くていいねぇ!」
「サウナも最高だ!」
あちこちから、楽しそうな声が聞こえてくる。
以前の湯けむり亭とは比べ物にならないほど、活気に満ちていた。
だが。
その中で、一つだけ。
常連達が気にしていることがあった。
「……なぁ」
「なんだ?」
「今日もミリナちゃん、いなくないか?」
「……あ」
言われて、別の客も周囲を見回す。
「そういや、最近見てないな」
「昨日もいなかったぞ」
「一昨日もじゃなかったか?」
少しずつ、ざわざわと店内に声が広がっていく。
「ミリナちゃん、体調でも悪いのか?」
「店長なのに、最近全然姿を見ないぞ」
「誰か知らないのか?」
常連達が、店員達を見る。
だが。
誰も答えられない。
ミアが、少し困った顔をする。
「えっと……」
「ミリナさんは……」
言葉を濁す。
エナも、普段の明るさを少しだけ失っていた。
「……ちょっと、体調が悪くて」
「休んでるんだよ」
「そうなのか?」
「大丈夫なのか?」
「もう何日も見てないぞ?」
質問が次々と飛んでくる。
「大丈夫です!」
ドロシィが、思わず答える。
だが。
その声には、いつもの元気がない。
「すぐ元気になりますから!」
常連達は、顔を見合わせた。
「……そうか」
「ならいいんだが」
それでも。
不安そうな顔は消えなかった。
その日の夜。
ミリナの部屋。
セレナが、ミリナの腕をじっと見ていた。
「……」
黒い痕は、以前よりも明らかに広がっている。
腕から。
肩へ。
胸へ。
そして。
胸の中心近くまで、黒い線が伸びていた。
「ミリナ」
「はい……」
「少しだけ、魔力を流します」
「お願いします」
セレナが、ミリナの腕へ手を添える。
淡い光が広がっていく。
黒い痕へ、魔力が流れ込む。
「……っ」
ミリナが、小さく息を呑む。
黒い痕が、一瞬だけ動きを止めた。
「……!」
セレナは、集中する。
「まだ……」
「止まってください……!」
さらに魔力を流す。
黒い痕が、少しだけ薄くなった。
だが。
次の瞬間。
黒い線が、再び伸びた。
「……!」
セレナの表情が険しくなる。
「そんな……」
ミリナが尋ねる。
「どうしました?」
セレナは、すぐには答えなかった。
もう一度、別の術式を使う。
今度は、黒い痕を外側から包み込む。
「……これで」
「少しでも進行を遅らせます」
光が、黒い痕を覆う。
数秒。
数十秒。
やがて、セレナが息を吐いた。
「……よし」
「少し、遅くなりました」
ミリナが、安心したように笑う。
「ありがとうございます」
だが。
セレナは笑わなかった。
ミリナから離れ、黒い痕をもう一度確認する。
「……おかしい」
「え?」
「昨日より、明らかに進行が速い」
「……」
「今までは、術をかければ数日は持たせられた」
「でも……」
セレナは、黒い痕を見る。
「今回は、もう数時間で戻り始めてる」
ミリナの顔から、笑みが消える。
「……そんなに」
「はい」
セレナは、静かに答えた。
「このままなら」
「次の術をかける前に、さらに進行する可能性があります」
「……」
「だから」
「今まで以上に、頻繁に遅延術を使います」
「セレナさん」
「はい」
「それで」
「どれくらい持ちますか?」
セレナは、答えられなかった。
ミリナが、それを見て静かに笑った。
「……分かりました」
「聞かない方がいいですね」
「……すみません」
「謝らないでください」
ミリナは、小さく笑った。
「セレナさんは」
「私のために」
「こんなに頑張ってくれてるんですから」
セレナは、拳を握った。
「……私は」
「解呪師です」
「国でも」
「それなりに名の知られた」
「解呪師です」
「なのに」
「今できるのは」
「ただ時間を稼ぐことだけ」
悔しそうに、唇を噛む。
「必ず」
「進行を止めます」
「何度でも」
「術をかけます」
「だから」
「絶対に諦めないでください」
ミリナは、優しく笑った。
「はい」
「諦めません」
部屋の外。
バルミナとルーナが、静かに待っていた。
扉が開く。
「……どうだった?」
バルミナが聞く。
セレナは、少しだけ間を置いた。
「……今までより」
「進行が速いです」
ルーナの顔が、青ざめる。
「……そんな」
セレナは、強く言った。
「必ず遅らせます」
「ですが」
「時間は」
「それほど残っていないかもしれません」
バルミナが、拳を握る。
「……桶さん」
誰も、答えなかった。
ただ。
遠く離れた場所で。
桶さん達は、湯けむり亭へ向けて帰路を進んでいた。
まだ。
ミリナの状況を知らない。
そして。
湯けむり亭では。
常連達が、ミリナの姿が見えないことに。
少しずつ。
本格的な不安を抱き始めていた。




