六十九話 ミリナの小さな異変
翌朝。
湯けむり亭は、いつも通り朝を迎えていた。
「おはようございます!」
エナが元気よく挨拶する。
「おはようございます」
ミアも続く。
「おはようございます!」
ドロシィも笑顔で続いた。
だが。
「……あれ?」
エナが首を傾げる。
「ミリナさん、まだ来てませんね」
いつもなら、誰より早く起きて、店の準備を始めている。
「寝坊ですかね?」
ドロシィが言う。
「珍しいですね」
ミアも少し心配そうだった。
しばらくすると。
「お、おはようございます……」
ミリナが、少し遅れて受付棟へ入ってきた。
「おはようございます!」
エナが駆け寄る。
「ミリナさん、珍しいですね!」
「え?」
「いつもより遅いですよ?」
「あ……」
ミリナが時計を見る。
「本当ですね」
少し困ったように笑う。
「すみません」
「昨日ちょっと眠れなくて」
「大丈夫ですか?」
ミアがすぐに聞く。
「はい」
「少し疲れてるだけです」
ミリナは笑った。
だが。
桶さんは、その笑顔を見て思った。
(……なんか変だな)
いつものミリナなら、朝からもっと元気だ。
それに、顔色もほんの少し悪い気がする。
『ミリナ』
『本当に大丈夫か?』
桶さんが話しかける。
「桶さん?」
ミリナが少しだけ振り向く。
『無理してないか?』
「大丈夫ですよ」
「ちょっと寝不足なだけです」
『……そうか?』
「はい」
ミリナは笑う。
桶さんは、それ以上言えなかった。
その後、営業が始まる。
「いらっしゃいませ!」
ミリナは、いつも通り仕事を始めた。
客を案内する。
受付をする。
新人達へ声をかける。
何も問題ない。
そう思っていた。
しかし。
「……」
ミリナの手が、一瞬止まった。
「ミリナさん?」
ミアが声をかける。
「……え?」
「どうしました?」
「あ……」
「ちょっとぼーっとしてました」
「大丈夫です」
また、笑う。
だが。
エナは、じっとミリナを見ていた。
「……ミリナさん」
「はい?」
「今日ちょっと変じゃないですか?」
「えっ!?」
ミリナが驚く。
「そ、そうですか?」
「なんか元気がないです!」
「そうかなぁ……」
「そうですよ!」
エナは、心配そうにミリナを見る。
ドロシィも口を開く。
「私も少し思ってました」
「ミリナさん」
「顔色がいつもより悪いです」
「……」
ミリナは、自分の頬に手を当てる。
「そんなにですか?」
「はい」
ミアも頷く。
「今日は少し休んだ方がいいかもしれません」
「でも……」
「お店は私達がやります」
ミアが、いつもより強い口調で言った。
「そうですよ!」
エナも続く。
「私達もいます!」
「任せてください!」
ドロシィも胸を張る。
ミリナは、少し驚いた顔をした。
そして。
「……ありがとうございます」
嬉しそうに笑う。
「でも」
「本当に大丈夫ですから」
そう言って、また仕事へ戻ろうとする。
その時だった。
「……っ」
ミリナの体が、一瞬ふらついた。
「ミリナさん!」
シャルネが、すぐに支える。
「大丈夫か?」
「……はい」
「ちょっと立ちくらみしただけです」
「座れ」
「でも……」
「いいから」
シャルネに言われ、ミリナは椅子へ座る。
「すみません……」
「謝るな」
シャルネは、少し険しい顔をしていた。
桶さんも、ミリナを見つめる。
(……やっぱりおかしい)
そして。
ミリナが桶さんを使って、いつものように温泉のお湯を体にかける。
しばらくして。
「……」
ミリナは、首を傾げた。
「……あれ?」
『どうした?』
「いつもなら」
「もう少し楽になるんですけど……」
桶さんの中で、嫌な感覚がした。
(……効いてない?)
完全に効いていないわけではない。
だが、いつものような、はっきりした回復感がない。
『ミリナ』
『今日はもう休もう』
「……はい」
ミリナも、さすがに逆らわなかった。
その日の夜。
ミリナは、いつもより早く仕事を切り上げた。
「今日はもう寝た方がいい」
シャルネが言う。
「でも……」
「明日の仕事は私達がやる」
「ミアもエナもドロシィもいる」
「だから今日は休め」
「……分かりました」
ミリナが頷く。
すると、シャルネが桶さんを見る。
「桶さんも」
「今日はミリナの部屋にいて」
『俺も?』
「念のためだ」
「何かあったらすぐミリナが気づけるだろ」
「……そうですね」
ミリナも頷いた。
『分かった』
こうして。
その夜。
桶さんは、ミリナの部屋に置かれていた。
ミリナはベッドに横になる。
「今日は本当に変な一日でしたね……」
『あぁ』
『俺も気になってる』
「明日には元気になってますよ」
『そうだといいけどな』
ミリナは、少し笑う。
「おやすみなさい」
『おやすみ』
しばらくすると、ミリナの寝息が聞こえてきた。
桶さんも、静かにミリナを見守っていた。
そして。
深夜。
「……」
眠っているミリナの手首に、一瞬だけ黒い細い痕が浮かんだ。
桶さんは、それをはっきりと見た。
(……なんだ、今の?)
黒い痕は、すぐに消えていった。
だが。
桶さんの中には、嫌な予感だけが残っていた。




