六十八話 広がっていく温泉の輪
湯けむり温泉郷が正式に動き始めてから、しばらく経った。
最初の頃と比べると、街の様子はまた少し変わっていた。
「ここにも新しい店ができるんですね」
ミリナが工事中の建物を見る。
「そうみたいだねぇ」
バルミナが答える。
湯けむり亭の周囲では、新しい建物が少しずつ増えていた。
お土産屋。
飲食店。
屋台。
宿泊施設。
そして、温泉郷を訪れる人達のための小さな休憩所まで作られている。
「前は、ここ、本当に何もありませんでしたよね」
ミリナが辺りを見渡す。
「湯けむり亭と、何軒か家があるだけでした」
「そうだったねぇ」
バルミナが笑う。
「今じゃ歩くのも大変なくらいだよ」
実際、昼頃になると、温泉郷には多くの人が歩いている。
「温泉はどこですか?」
「この先ですよ」
「夜狐飯店は?」
「あっちです!」
「蜂蜜のお土産はどこで買えますか?」
「お土産屋ですよ!」
そんなやり取りが、当たり前になっていた。
そして。
「いらっしゃいませ!」
夜狐飯店から、元気な声が響く。
店内は、今日も満席。
料理を運ぶ獣人達の動きは、相変わらず速い。
「三番テーブル!」
「了解!」
料理を持ったまま、厨房とホールを行き来する。
普通の店員なら、何度も往復すれば息が切れそうな距離。
だが。
彼女達にとっては、ほとんど問題にならない。
「すごい速さだな……」
初めて来た客が驚いている。
「しかも制服可愛いな」
「それも人気の理由らしいぞ」
そんな声まで聞こえてくる。
少し離れた場所では。
「今日も混んでるねぇ」
バルミナが笑う。
「ありがたいことです」
リリィの父も嬉しそうだった。
そして。
サウナも、日に日に人気が高まっていた。
「次の熱波は何時ですか?」
「ルーナさんの回は?」
「バルミナさんの回は空いてますか?」
受付では、そんな問い合わせが増えている。
ルーナは、すっかり人気熱波師になっていた。
「今日もお願いします!」
「はい!」
笑顔で答える。
以前のように、冒険者から声をかけられることはある。
だが。
今では、仕事として尊敬されている。
「ルーナさんの熱波が好きなんです!」
「ありがとうございます!」
ルーナは、嬉しそうに笑っていた。
一方。
「私はもっと熱くしてやるよ」
バルミナの熱波を受けたドワーフ達は。
「これだよ!」
「やっぱりバルミナさんだ!」
こちらも大人気だった。
そんな二人を見て、桶さんは呆れていた。
(本当にサウナ文化広がったなぁ)
自分が前世で知っていたもの。
それを、この世界の人達が楽しんでいる。
それだけで、桶さんは嬉しかった。
その日の夕方。
湯けむり亭を訪れた客達が、温泉から上がって温泉郷へ散っていく。
「飯食って帰ろうぜ!」
「蜂蜜買っていこう!」
「サウナもう一回入ろうかな」
それぞれが、自分の好きな場所へ向かっていく。
桶さんは、その光景を見ていた。
(昔は)
(俺が桶としてお湯をかけないと)
(みんなが俺の力を使えなかった)
でも。
今は違う。
湯けむり亭には、桶さんが伝えてきた温泉の楽しみ方が、少しずつ根付いている。
そして。
それを楽しんだ人達が、さらに別の人へ温泉の良さを伝えている。
「また来ような!」
「今度は友達も連れてくる!」
「家族にも教えてやろう!」
そんな言葉が、今日も聞こえる。
桶さんは、なんとなく胸が熱くなった。
(温泉って)
(こうやって広がっていくんだな)
自分が誰かに伝える。
その人がまた誰かに伝える。
そして。
いつの間にか、大きな輪になっている。
夜。
湯けむり亭の営業が終わった。
皆が帰った後。
桶さんは、静かな浴場を眺めていた。
昼間とは違う。
誰もいない。
静かな湯船。
立ち上る湯気。
桶さんは、何となくステータスを確認する。
???スキル。
表示されている数字は。
86%。
(……また上がったな)
それだけ。
桶さんは、特に深く考えることなくステータスを閉じた。
(まぁ)
(そのうち分かるだろ)
そして。
静かな浴場を、もう一度眺める。
湯けむりが、ゆっくりと天井へ昇っていた。
その頃。
ミリナの部屋では。
「……あれ?」
ミリナが、胸元に手を当てていた。
「なんでしょう……」
ほんの少し。
胸が苦しい。
だが。
「疲れてるだけですよね」
そう呟いて。
ミリナは、その違和感を気にせず眠りについた。
まだ。
誰も知らない。
小さな異変が、静かに始まっていた。




