第七話 桶、初めてのダンジョンへ
朝。
《湯けむり亭》の入口で、俺は少し緊張していた。
(……ついに外か)
転生してから、ずっと風呂屋の中だけだった。
男湯。
女湯。
脱衣所。
閉店後の静かな浴場。
それが俺の世界だった。
だが今日は違う。
「忘れ物ないですか?」
ミリナが、なぜか真面目な顔で確認してくる。
(桶に忘れ物ってなんだよ)
念話を返すと、ミリナは少し笑った。
「なんとなくです」
そう言いながら、彼女は俺を持ち上げた。
そして。
「はい、これです」
(……おぉ?)
桶の縁には、しっかりとした革紐が巻かれていた。
しかも妙にぴったりだ。
「昨日買ってきたんです」
(これ、お前が付けたのか?)
「はい。持ち運びやすいかなって」
革紐は肩掛けできる長さになっており、桶を腰の辺りへぶら下げられるようになっていた。
(めちゃくちゃ桶専用じゃねぇか……)
妙に感動する。
「これなら外も見えますよ?」
(おぉ!)
重要だ。
袋の中とか絶対嫌だった。
せっかくの異世界なのだから、ちゃんと見たい。
「じゃあ借りてくぜ」
《アタミサイコ》の戦士が、俺を肩へ提げた。
その瞬間。
外の景色が視界いっぱいに広がる。
(おぉぉぉ……!)
石畳。
朝日に照らされる街並み。
行き交う人々。
荷車。
露店。
獣人の耳。
エルフ。
鎧姿の冒険者。
全部が新鮮だった。
「焼き串だよー!」
「今日の薬草安いよー!」
「冒険者募集! 二十階層まで!」
街は朝から活気に満ちている。
(異世界って感じだなぁ……)
思わずしみじみする。
「いってらっしゃい!」
後ろからミリナの声。
振り返ると、店先で手を振っていた。
(おう。行ってくる)
もちろん周囲には聞こえない。
だが、ミリナだけは小さく笑った。
◇◇◇
やがて一行は街の中央へ近づいていった。
周囲の音が変わる。
ざわめきが増える。
金属音。
武器屋の呼び声。
冒険者たちの怒鳴り声。
(……ん?)
前方に、とんでもなく大きな空間が見えてきた。
「見えてきたぞ」
戦士が言う。
「これがこの街の大迷宮だ」
(うぉ……)
巨大だった。
街の中心にぽっかり空いた大穴。
その周囲を囲む石造りの建物。
絶え間なく出入りする冒険者たち。
まるで街そのものが、迷宮と共に生きているようだった。
(すげぇ……本当に異世界だ……)
ちょっと感動する。
すると近くから声が聞こえてきた。
「十八階は冷えるぞー!」
「氷蜥蜴には気をつけろ!」
獣人の槍使いが嫌そうに耳を伏せる。
「あいつら、細かい氷飛ばしてきやがるんだよ」
「傷は浅いんだが、数が増えるときつい」
「だから今日は回復桶頼みってわけだ」
ドワーフの女が苦笑した。
(なるほどなぁ)
細かい傷を継続的に癒やせる存在が欲しかったのか。
なんだか少し嬉しくなる。
異世界の冒険者に頼られる。
男としては結構わくわくする状況だ。
桶だけど。
◇◇◇
ダンジョン攻略は順調だった。
十階。
十二階。
十五階。
魔物との戦闘はあったが、《アタミサイコ》はかなり強い。
前衛の戦士が敵を止め、
獣人が横から槍を突き込み、
エルフが短剣で急所を狙う。
ドワーフの女は後方から斧を投げて援護。
(B級ってすげぇな……)
しかも大きな怪我がない。
つまり。
(俺、全然出番ねぇ)
戦士の腰で揺られながら、少ししょんぼりする。
だが、そのおかげで誰も異変には気づかなかった。
十八階へ降りるまでは。
◇◇◇
「来るぞ!」
戦士の怒声。
直後。
ピシィッ!!
鋭い音と共に、無数の氷片が飛来した。
「ぐっ!」
「ちぃっ!」
細かい氷の刃。
それが肌を切り裂いていく。
深くはない。
だが痛い。
しかも数が多い。
通路の奥には、青白い蜥蜴型の魔物が群れていた。
「これか……!」
《アタミサイコ》は応戦する。
だが。
避けても避けても、小さな傷が増えていく。
「回復桶!」
「頼む!」
ついに俺の出番だった。
戦士の男が俺へ温泉の湯を注ぎ、負傷した獣人へかける。
ぱしゃっ。
……。
「……あれ?」
傷が治らない。
一同の動きが止まった。
「おい……?」
もう一度。
ぱしゃっ。
だが。
何も起きない。
(な、なんでだ!?)
俺も混乱する。
今までこんなことはなかった。
だが考えている暇はない。
氷片が再び飛来する。
「くっ……!」
「駄目だ、回復しねぇ!」
「撤退!」
戦士が即座に判断した。
《アタミサイコ》は陣形を維持したまま後退を始める。
氷蜥蜴たちが追いすがる。
冷気。
氷。
傷。
そして。
(なんで効かねぇんだよ……!)
混乱したまま。
俺は初めてのダンジョンで、何もできなかった。




