第五話 湯けむり亭の決まり事
翌日。
湯けむり亭の入口には、新しい貼り紙が増えていた。
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『湯けむり亭の決まり事』
・湯船へ入る前に体を流しましょう
・桶と椅子は使った場所へ戻しましょう
・湯船へ飛び込んではいけません
・みんなで気持ちよく入りましょう
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「おっ、貼り紙増えてる」
「最後の一文、ミリナっぽいな」
「飛び込むなって書かれてるぞお前」
「うるせぇ」
朝から冒険者たちが笑っている。
今日は男湯の日だった。
だが。
(……お?)
思ったより効果がある。
体を流してから入る者が増え、
桶も以前より戻されている。
もちろん全員ではない。
守らない奴も普通にいる。
だが、前よりはずっといい。
「おい、使った椅子戻せよ」
「お前昨日もミリナに怒られてただろ」
常連客が自然に声を掛け始めていた。
(おぉ……)
これだ。
こういうのでいい。
風呂は皆で気持ちよく入るものなのだ。
そして何より。
閉店前になっても浴場がそこまで荒れていない。
(掃除、だいぶ楽になるんじゃないか?)
そんなことを思っていると。
「最近また客増えたなぁ」
湯船に浸かっていたドワーフの男がぽつりと言った。
「あぁ。回復桶が来てから一気だ」
「前はかなり厳しかったからなぁ……」
(ん?)
俺は少し耳を傾ける。
常連らしい男たちは、湯気の中でしみじみ話し始めた。
「ミリナちゃん、ずっと頑張ってたもんな」
「あの歳で風呂屋切り盛りしてるだけでも大したもんだ」
「親御さん亡くなったの、もう何年前だったか」
「三年くらい前じゃなかったか?」
(……そうなのか)
初めて聞く話だった。
「婆さんと二人だろ?」
「あぁ。湯けむり亭も代々続いてる風呂屋らしい」
「だから簡単には畳みたくねぇんだと」
男たちは静かに湯へ肩まで浸かる。
「俺ぁ正直、潰れるかと思ってた」
「わかる」
「客も減ってたしなぁ」
「けどまぁ」
そこで男の一人が笑った。
「最近はすげぇ繁盛だ」
「あの回復桶様様だな」
(様付けやめろ)
だが少しだけ。
胸の奥が、妙に温かかった。
あいつ。
ずっと一人で頑張ってたのか。
◇◇◇
閉店後。
浴場には静かな水音だけが響いていた。
以前より、床は綺麗だった。
桶もちゃんと並べられている。
ミリナは湯桶を抱えながら、ほっとしたように息を吐く。
「すごいです……昨日よりずっと楽です」
(だろ?)
「決まり事って大事なんですねぇ」
(日本――いや、俺の故郷でも風呂の作法は結構うるさかったぞ)
「さほう?」
(えーっと……風呂で皆が気持ちよく過ごすための決まりみたいなもんだ)
「なるほど……」
ミリナは感心したように頷いた。
それから、並べられた桶を見回して。
「でも本当に助かりました」
ぽつりと言う。
「最近、お客さんも増えましたし……」
(よかったじゃないか)
「はい。すごく」
そう笑った後。
ミリナは少しだけ寂しそうな顔をした。
「……おばあちゃんも安心してました」
(婆ちゃんいるのか)
「はい。今はあまり動けないんですけど」
ミリナは床を磨きながら続ける。
「このお風呂屋さん、ずっと昔から続いてるんです」
(へぇ)
「だから……なくしたくなくて」
その声は小さい。
だが、強かった。
「お父さんとお母さんがいなくなってからは、ずっと必死でした」
ごしごし、と床を磨く手に力が入る。
「お客さんも減って……」
「このまま潰れるんじゃないかって、毎日怖くて……」
そこまで言ってから、ミリナは慌てたように笑った。
「あっ、ご、ごめんなさい! 変なお話を……」
(いや)
俺は少し考える。
それから静かに答えた。
(いい風呂だと思うぞ、ここ)
ぴたり、と。
ミリナの手が止まった。
「……本当ですか?」
(湯もいいし、湯気の匂いも落ち着く)
(それに、常連もちゃんとお前のこと見てる)
「……え?」
(今日聞いた)
常連たちの言葉を思い出す。
『潰したくねぇ』
『頑張ってる』
『最近また賑やかで嬉しい』
あれは全部、本音だった。
ミリナはしばらく黙っていた。
やがて。
「……えへへ」
少し照れたように笑う。
「なんだか元気出ました」
(そりゃよかった)
湯気が静かに揺れる。
閉店後の浴場は、今日も穏やかだった。
そして俺は、そんな景色を見ながら思う。
(……案外、悪くないな)
桶生活も。




