第三章 ディス・カントン・アールガウ巡礼 4 エゲム 2
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翌朝、私は一人邸宅を出ると南へ向けて歩き出す。まだ夜明け前だ。日の光の効用か前日に受けた不気味さは幾分薄らぎどちらかというと広大な町を独り占めしているかのような、そんな感覚だった。深呼吸すると澄んで冷たい空気が肺に一気に流れ込んだ。
南へ向かったのには訳がある。場所的にそちらに中央広場――ここではフォルムというらしい――があるだろうと推測したからだ。
私は夢を見ているのだろうか、中央広場は人がたくさん往来しており、朝の喧噪に満ちていた。それは不思議な光景であった。けれど私は訝しむことなく、何の違和感も感じず中央広場に入っていった。幻覚を見ているのではないかと頭の片隅では疑ってはいるのだけれど、同時に何ら不思議なことではないとそれを拒否し信じる自分がいた。
こういうのを白昼夢というのだろう。わりに冷静だったし夢ならいつか冷めることだろう。別の世界に紛れてしまうという話はよく聞くがまさか自らの身に訪れるとは思ってもみなかった。
市場では生花が売られている。瑞々しく美しい。自然とテンションがあがる。屋台は様々な物を売っており、食料品だけではなく籐の籠を売る店や蝋燭を売る店など見ているだけでも楽しい気分になってくる。
あたりからは良い匂いが漂ってくる。ちょうど朝食時だからだろうか、人は皆東の建物に吸い込まれていくようだ。
中央広場は私が入ってきた北側を除く三方に柱廊が巡り、南には市庁舎や投票所といった行政施設が並んでいる。荘厳で美しい建築物が並んでいる。西列柱廊には多目的ホールがあるようだ。裁判や商取引が行われているのだろうか。東からはなんとも私の食欲を刺激するようないい匂いがしてくる。肉や魚の市場と、穀物と乾燥野菜の市場があるが、それ以外にも至る所に露店が開かれている。
パン屋や屋台などが盛況な様子から町では基本的に朝は皆パンやチーズなどの軽食で済ませることが多いようだ。私は昨日の晩は何も食べていなかったし、もっと本格的なものが食べたかった。――この大陸に来てからろくなものを食べていない――とにかく腹が減っていた。
昨日夜にブカヨにこの町について知っていることを教えてもらった。ブカヨは親や村の長老などから教えてもらったらしい。この町はある家系が町を牛耳っており、おそらく昨日泊まったファウヌスの家だろう、当時は貧富の差の激しい格差社会だったらしい。鎖国していたのも他都市から新たに人が流入しないようにするためだった。市民の四分の一は奴隷であったようだ。それらは戦争の被征服民や捨て子や奴隷の母親から産まれた子どもたちだった。主人に気に入られ奴隷身分から解放されるという希望が彼らの労働の原動力であったそうだ。パン屋や市場で買い物をしているのはそのような奴隷たちであろう。
私は腹を満たすため、最初に見つけた食堂に入った。食堂はトリクリニウム(三つのクリネ臥台の部屋)と呼ばれるコの字型に臥台がいくつも配されている部屋に通された。他にも多くの客で賑わっている。この手の食堂に私は何度か訪れたことがあった。ヘントヴェヘルへムにも何件かある。最初は勝手がわからず面食らうのだけれど、発祥がどこかわからないが沿岸部によく見られる形態なのかもしれない。かなり行儀が悪いように思えるがそれは今の私の文化での価値観であるわけだからここの人にとってはこれが普通なのだろう。それはつくづく自分が了見の狭い人間であると痛感させられる瞬間だ。私は旅で受けるカルチャーショックを楽しむことにしている。
部屋の中央に頭を向けて寝そべり頭の近くに小卓が置かれる。奴隷たちの給仕でワインを飲みながらしばらく待っていると前菜が運ばれてくる。前菜は卵料理、オリーブやレタス、チーズやソーセージなど。ありふれたものだがどれも新鮮で今朝採れたばかりのもののようだ。鮮度が良いだけでどうしておいしく感じるのだろうか。手掴みで前菜、主菜、デザートと続くコース料理を楽しむのだ。私は寝転がっているだけで次々と料理が運ばれてくる。
主菜は港からの新鮮な魚介類だった。魚も悪くない。デザートは果物やドライフルーツ、そして小麦粉や卵や蜂蜜を使った菓子も供された。こんな満たされる料理を食べたのは久しぶりだ。最近は簡易的なものばかりで味云々は二の次の保存が利くものが中心でいかに腹が満たされるかという一点のみだったためだ。
私は高い空を見ながら珈琲を飲み、煙草を吸う。深い息と共に煙が昇っていく。チリチリと煙草の先端が赤く明滅する。満腹になり満ち足りた気分で私は居眠りを始めてしまう。
私は北の石柱にもたれかかる形で倒れているところを頬を叩かれ目を覚ました。
「のんびり寝てないで起きてくださいよ」
スパグスが私の顔をのぞき込んでいる。
「こんなところで何をしているんです?」
スパグスは訊いた。
「野犬か狼に襲われますよ」
日はもう中天に達しようとしており、かなりの時間を夢の中で過ごしてしまったようだ。スパグスによると甘いフェロモンのようなものを分泌し、相手を眠らせて捕食するといった植物が存在するらしい。あるいは私はそういった植物に狙われたのかもしれなかった。顔を上げ辺りを見回してみたがもちろんそれらしきものは見当たらないが。なかなか面白い体験ではあったのでもう一度体験できればうれしいが、死んでしまうのなら元も子もないだろう。ああ、それがここが廃墟になった一因であるのかもしれないなとふと思ったが確かめようはない。
スパグスは私を探しに来たのは、ブカヨが朝からその姿を見せなくなったことを報告するためだったらしい。私もいないものだからスパグスも相当慌てていただろう。まぁ私は荷物はそのままなので散歩だとはわかっていたそうだが。ブカヨは荷物もまとめており、その痕跡はなかったそうだ。
私と同じように眠っているのではないかと二人で町の中を手分けして探したが、ブカヨはついに見つからなかった。遁走してしまったのだろうか。また図らずも二人旅に戻ってしまった。ブカヨはそのままアーラウまで雇うつもりだったし、彼が望むならその後も連れて行くつもりであった。ブカヨはこの町を怖がっていたのに無理に連れてきてしまったので悪いことをしたな、と思った。
私たちは早々にエゲムの町を後にした。




