幕 間 預けられた命
「もうっ……。だらしないんだから」
「はははっ……。」
結城秀康は驚くしかなかった。
思考を奪われ、目の前の光景を茫然と眺めるしかできなかった。
座った小早川秀秋の背後に膝立ち、髷を解いた髪を櫛で梳く女性。
秀康の知る彼女とは、まるで別人のようだった。
かつては、抜き身の刃のごとく鋭く。
近頃は、険は抜けても、常に毅然とした態度を崩さない。
それが今、柔らかく目を細め、心から嬉しそうに微笑んでいた。
ひとりの女としての顔を、隠すことなく見せていた。
「小早川殿……。」
「あっ!? 大丈夫だよ。茶々は承知しているから」
「……そ、それもそうか」
動揺を押し隠して話しかけた秀康に、秀秋はのほほんと答えた。
週に一度、二人がひと時を過ごしているのは、秀康の家臣も知っている。
だが、どこで会っているのかまでは、誰にも明かしてはいなかった。
必然的に同席する女性『淀の方』は、二人の関係を知っていて当然であった。
「なら、秀秋……。もう一度、確認するぞ?」
「うん」
「お前が俺にずっと相談していたのは、淀の方……。
いや、ここは名前で呼ばせていただこう。
……茶々殿だったのか?」
秀康はいまだ信じられなかった。
秀秋が、名を明かせない女性と深く懇意にしていることは、以前から承知していた。
しかし、いまや右大臣の座に就き、豊臣家の事実上の頂点に立つ小早川秀秋である。
その彼にして、なお名を明かせぬ女性となれば、自ずと該当する人物は限られてくる。
それでも、淀の方『茶々』の名だけは、まったくの想定外だった。
「実はそうだったんだよ。
今まで、名前を明かせなくて……。ごめんね?」
「まあ……。当然だろうな」
「俺だって、辛かったんだよ」
同時に名を明かせなかった理由も、ようやく腑に落ちた。
茶々は豊臣家の君主『豊臣秀頼』の実母である。
その茶々と秀秋の関係は、ひとたび露見すれば豊臣家を二分する。
ひいては天下に騒乱を撒き散らしかねぬ危うさを強く孕んでいた。
「それで……。茶々殿が、身ごもったと?」
しかも、茶々が秀秋の子を身ごもったというのだから、事態はさらに複雑だった。
「めでたいよね! 男の子かな? 女の子かな?」
ところが、諸悪の根源たる秀秋は、頭がお花畑すぎた。
いきなり天下の大事を告げられ、秀康が茫然自失に陥るのも無理はなかった。
「ふふふっ……。」
「男の子なら、俺に似てきっと格好いい!
女の子なら、茶々に似て……。美人に決まってる!」
「前々から思っていたけれど……。あなたって、本当に親バカよね」
「えっ!? ……そお?」
挙げ句の果てには、放っておけば秀秋と茶々は平然といちゃつき始める。
囲炉裏で焼いていた餅は、とうの昔に焼き焦げ、形を崩して落ちていた。
秀康は、逃げ出したかった。
「そして、城にいたのは、偽物で……。」
しかし、逃げられない。
秀康は、豊臣家のさらなる秘密を知ってしまったのだ。
今も、大阪城にいる茶々が、実は偽物であると。
「瓜二つだから、驚いたでしょ!」
「……私も驚いたわ。忍びって、すごいのね」
「影武者ってやつだね。
あっ!? 茶々は女だから……。影姫?
いや、姫って歳じゃないなー」
「何よ、もうっ!」
「痛っ!?」
またもや勝手に始まる甘い幸せ空間。
秀康は、思わず顔を引きつらせた。
「茶々殿が……。子を産むまでの間、その身を俺に預けたいと?」
「……駄目?」
「お前、俺の立場が分かっているのか!
俺の父は……。お前の敵だぞ!」
ついに、秀康は声を張り上げた。
板間を右手で思い切り叩き、危機感のない秀秋に怒声を浴びせた。
「だから、だよ」
「……どういう意味だ」
秀秋の目が、一瞬にして硬く引き締まり、真剣そのものの光を宿した。
のんびりとした表情は消え去り、言葉以上に強い意思が、その瞳から滲み出ていた。
「逆に考えるんだよ。
こちらが徳川を探っているように、徳川もこちらを探っている」
「どこに匿おうと、茶々は目立つ。
見つかるのは……。遅いか早いかの違いでしかない」
「だったらさ……。
兄ちゃんの手元に置くほうが、時間を稼げる可能性は高い」
「豊臣の忍びが茶々を見つけたとしても……
それは他人の空似だ、で簡単に済むだろ?」
実に妙案だった。
人の逆手を取る、その計算高さに、秀康は思わず唸らざるを得なかった。
その一方で、秀康は思い知らされた。
秀秋が、自分を兄として慕ってくれていることは知っていた。
だが、ここまで深く、これほど強く信頼してくれているとは思っていなかった。
この策は、もし秀康が裏切れば、すべてが終わる。
徳川家が豊臣家を打倒する可能性すら、秘められているのだ。
「……茶々殿。あなたは、よろしいのか?」
秀康は考えあぐね、この策の主役である茶々に意見を求めた。
すると、髷を結い終えた茶々は、静かに秀秋の隣に腰を下ろした。
正座し、背筋をピンと伸ばす凛とした佇まい。
まさに、それは戦国乱世に翻弄されながらも、女としての頂点に立った、今は亡き浅井家の女にふさわしい佇まいだった。
「失礼ながら……。
結城殿のことは、ずっと以前より、小早川殿から伺っておりました」
「……ですから、存じております。
小早川殿が、結城殿をどれほど深く信じ、頼りにしておられるかを……。」
「であるならば……。
私が自分で選んだ男です。
その男が信じているあなたを、私も信じます」
「どうか……。よろしくお願いいたします」
そして、茶々は両手を床につき、頭を深々と下げた。
秀康が目を見開き、思わず視線を向けると、秀秋は照れくさそうに微笑んでいた。
「……分かりました。お引き受けしましょう」
「おおっ!」
「ありがとうございます」
急に、涙がこみ上げてきた。
秀康は必死にそれを堪え、天井を見上げる。
求めても何も返してくれなかった父と、すべてを懐に預けてくれた弟夫婦。
その差は、比較にすらならなかった。
秀康がずっと求めていたもの。それが、ここにあった。
「秀秋……。俺は腹を決めたぞ」
「うん、大変だと思うけど、よろしくね!」
「ふっ……。そういう意味ではないがな。
まったく……。お前は相変わらずだ」
秀康は深く頷き、決断を下した。
弟のためなら、己の命すら投げ出しても構わない、と。




