第67話 爆音☆般若心経
「度一切苦厄! 舎利子ぃ~っ!
色不異空! 空不異色! 色即是っ空ぅ~~っ!」
竹林を抜けるそよ風が、肌に心地よく触れる。
手頃な庭岩に右足を置き、抱えた琵琶をかき鳴らしながら、俺は情熱を込めて歌う。
琵琶を奏で、歌う。
それが最近の俺のマイブームだ。
通常の琵琶は四弦だが、この琵琶は珍しい五弦の品である。
暇つぶしに大阪城の蔵を探検していたとき、ふと目に留まり、これだと直感した。
「不生っ、不滅! 不垢っ、不浄! 不増っ、不減!
是故、是故! 是ぇぇ故! 是故、是故! 是ぇぇ故空中!」
気分が乗ってきた。
琵琶の本体は腹にあてたまま、左腕を上下に動かし、棹を奏でるリズムに合わせて振る。
実を言うと、俺は昔ちょっとギターかじったことがあった。
『安くしてやるから、ギター買わないか?
バンドをやれば、女子にモテモテだぞ?』
高校一年のとき、先輩から受けた助言がきっかけだった。
少し前に見たガールズバンドのアニメが格好よくて、心のどこかで影響されていた俺は、迷わずそのギターを予約した。
夏休みは近所の土建屋さんに雇ってもらい、バイト三昧。
バンド活動に金がかかるのは、別のガールズバンドを新たに履修して分かっていたからだ。
「無色、無色、無色っ!
無受っ、想行識! 無ぅ~限、耳鼻舌身意ぃっ!
無ぅ~色、声香味触法っ! ふぉう、ふぉうっ!」
頭を上下に激しく振り、ご機嫌なヘドバン。
髷が解け、髪が振り乱れても気にしない。
これこそ、ヘドバンの醍醐味だ。
ギターを晴れて手に入れた俺は、必死に練習した。
俺が住んでいた街は、ライブハウスなんて洒落た店はない。
家での練習は母さんが怒るので、放課後はカラオケに通い、夜遅くまで猛特訓した。
バンド目当てで始めたギターだが、メンバーは集まらなかった。
どうせモテモテになるなら、そのきらめきはソロのほうが独り占めできる。そう思えば、不満はなかった。
「無ぅ~眼界! 乃至無ぅ~意識界!
無ぅ~無ぅ~っ、明亦! 無ぅ~無ぅ~、明尽! むー、むー、むーっ!」
気分は最高潮。
汗を滴らせ、バチで弦を弾く速度をさらに加速させる。
そして、ついにモテモテの俺になる、文化祭の日がやってきた。
顔は真っ白に塗り、目は星型に。
真っ金髪に染めた髪を逆立て、素肌に革ジャンを羽織り、ぴちぴちのレザーパンツ。
友人たちの協力で、眩しいバックライトを幾つも浴びながら、俺は学校の屋上で熱唱した。
グラウンドでは、最終日のキャンプファイヤーを囲んでしんみりしたバラードが流れる中、爆音ヘビメタ化した校歌を歌いまくった。
「究竟涅槃! 究竟涅槃!
三世諸仏! 三世諸仏!
依般若っ波羅蜜多故おおおおおおっ!」
すぐに文化祭実行委員の連中に止められた。
翌日、校長先生と教頭先生、それに担任にこってり絞られ、反省文を書かされた。
さらに毛染めを買いに行かされ、目の前で黒く染めるのを強要された。
「是、ぜぜぜぜぜっ!
是大神呪! 是大明呪! 是無上呪! 是無等等呪! ぜえええええっ!」
違う意味で、モテモテになった。
男も女も、俺が歩くだけで『あの人だ』と指を差してクスクス笑う。
その状態は、冬休みに入るまで続いた。
「即説呪日!
羯諦、羯諦! ぎゃあ、ぎゃあ! 羯諦!
波羅っ羯諦! 波羅っ! 僧っ! 羯諦っ!」
フィニッシュは、琵琶を背負っての背面弾き。
必死に覚えた格好いい技だ。
俺の技術では旋律が乱れてしまうが、大事なのは勢いである。
そもそも、バンドをやれば、女の子にモテるなんて幻想だった。
よく考えれば、ギターを売ってくれた先輩にだって、彼女はいなかったのだから。
翌年、俺はギターを後輩に売った。
「菩ぉー提ぃー薩婆訶! ふぉう! 般若心経うっ!」
琵琶を正面に構え直し、足を大きく前後に広げながらジャンプを決める。
着地と同時に、弦が切れそうなほど思い切り弾いた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。」
今の俺、格好よすぎないだろうか。
激しく肩で息しつつ、ドヤ顔を観客に向けた。
「うーーーん……。新しい般若心経だな。
和尚は怒るやもしれんが、俺は嫌いじゃないぞ?」
「あっ!? 兄ちゃん、遅かったね?」
しかし、拍手が聞こえ、反対方向へ顔を向けた。
結城秀康が腕を組み、ウンウンと頷きながら、林道の出入り口に立っていた。
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「まだかな? まだかな?」
「くっくっ……。慌てるな」
囲炉裏でぱちぱちと弾ける赤い炭の音が響く。
竹串に刺した餅がじりじりと炙られ、塗られた『たまり』の香ばしい匂いが漂い始める。
向かいでは秀康が海苔を切っており、俺はよだれが溢れ、もう辛抱がたまらない。
「じゃあ、早速なんだけど……。」
しかし、ちゃんと焼けていない餅は美味くない。
俺は囲炉裏へ前のめりになっていた上半身を戻し、秀康を見やった。
「どうせ、お前のことだ。女の相談だろ?」
秀康は手を止めることなく、目線だけをこちらに向けて苦笑した。
俺もばつが悪くなり、つられて苦笑する。
「いや、まあ……。そうなんだけどさ」
秀康を見込んで、相談したことがあった。
だが、いざとなると言い出しにくく、俺は言葉を濁す。
囲炉裏の火が小さく爆ぜる。
海苔を刻む小気味いい音だけが、やけに大きく響いていた。
「この前言っていた讃岐の女か?」
「……えっ!?」
今一度、秀康はこちらを見て、ニヤリと笑った。
心臓がドキリと跳ね、俺は思わず目を見開いた。
「名前は……。志乃、だったか?」
その一瞬の隙が、致命的だった。
止める間もなく、秀康は言葉を繋いだ。
「わーーー、わーーー、わーーーっ!?」
「ちょっとっ!? 誰よ、その女っ!」
慌てて大声で打ち消すが、時すでに遅し。
襖がスパーンと音を立てて開き、眉を吊り上げた茶々が現れた。
「ななっ!?」
秀康は座ったままびくりと跳ね、上半身を仰け反らせた。
当然の反応だ。
茶々は、よほどのことがない限り大阪はおろか、大阪城から出てくることもない。
それが、こんな場所に前触れもなく現れたのだ。
誰だって驚く。
「わわっ!? よ、呼ぶまで、待ってて言ったじゃん!」
「うるさい! もう新しい女は作らないって言ったはずよ!」
しかし、茶々は秀康に目もくれない。
足早にドスドスと歩み寄ると、俺の襟首を掴み、猛烈に揺さぶった。




