幕 間 江戸の夕暮れに揺れる心
「ふぅ……。むっ!?」
江戸城からの帰路。
ふと漏れた溜息に気づいた『真田信之』は、しまったとばかりに右手で口元を覆った。
「やれやれ……。今日は珍しく仕事が早く終わったな」
「ああ、最近は日が暮れてからが常だったからな」
大手門を抜け、まだ一辻目を通り過ぎたばかり。
街は茜色に染まりつつあるが、往来には人影が絶えない。
溜息ひとつ、耳に入ろうものなら、厄介なことになるからだった。
目線だけを左右に走らせ、無事を確認すると、信之は思わず止めた歩を再び進めた。
「禄は変わらず、仕事は増えるってね」
「財布も痩せてるぞ」
天下分け目の決戦になった関ヶ原。
徳川秀忠は、この戦いに間に合わなかった。
信之もまた、秀忠に従軍していたため、同じく遅参することとなった。
しかし、豊臣家と徳川家の間に停戦が成ると、信之は新たに所領を得た。
上野三万石からの転封ではあったが、天下の堅城『小田原城』を擁する相模五万石への加増である。
豊臣家より届けられた朱印状。
それに添えられた書状には、こう記されていた。
『天の采配で、我らは東西に分かれてしまいましたが……。
上田城を巡る戦、つぶさに聞き及んでいます。
まことにお見事にございました』
『もし、貴殿が三日早く、美濃に到着なされていたなら……。
私は愚鈍のまま、露と消えていたことでしょう』
『胸を張って、小田原をお受け取りください。
いつの日か、あなたと采を競い合う日を楽しみにしております』
『追伸……。
本多忠勝殿は、勇にして、まさしく戦国無双。
その旨、奥方様にもお伝え願いたい』
勝利して驕らず、敵の健闘を讃え、なお再戦を願う、その気高き心。
関ヶ原の戦いで一躍名を挙げた小早川秀秋からの書状であった。
モノノフとは、かくありたいもの。
信之は胸を打たれ、深く感動した。
だが、その感動を語ることはできない。
信之が属する徳川方には、小早川秀秋への怨嗟が渦巻いていた。
「新蕎麦が出たってよ、信州からだってさ」
「いや、帰る。節約だ、節約」
そして、その余波は、信之にも及んでいた。
理由は単純である。
徳川家に与した者たちが、次々と改易の沙汰を受け、所領を豊臣家に没収されていく。
そのなかで、信之は加増を賜った。
すなわち、妬みであった。
「うーーーん……。これくらい値で、いかがですか?」
「これは家宝の刀だぞ! そんなはずがあるか!」
また、天下分け目を前に袂を分かった父『真田昌幸』は大出世を遂げた。
上田の一領主に過ぎなかった身が、甲斐と信濃二国を統べる大大名へと上り詰めたのである。
その甲斐と小田原は、道で通じている。
そこに要らぬ猜疑が芽生え、信之は間者ではないかと囁かれた。
信之にとって、二心を疑われるのは耐え難かった。
無論、そのように面と向かって言われたことはない。
ちくちくと刺さる嫌味の数々が、胸にこたえた。
「気のせいか? 米の値が上がってねえか?」
「……だよな。俺もそう思ってたんだ」
信之が気を滅入らせる理由は、もう一つあった。
従軍した縁により、そのまま仕えることとなった『徳川秀忠』である。
関ヶ原の戦いのとき、秀忠は21歳。
偉大な父『徳川家康』の背を追い、堅実にして生真面目、実直な好青年であった。
「ああ……。一稼ぎできる、旨い話はないかねぇ」
「おっ!? 知らねえのか?
殿様が新しく堀を作るって、人手を募集してんだぞ?」
しかし、関ヶ原への遅参。
その大事が、秀忠の内に影を落とした。
家康の怒声も、詰責もあった。
秀忠自身の責任感の大きさもあった。
だが、彼を最も強く揺さぶったのは、小早川秀秋であった。
関ヶ原の戦い以後も、その躍進は目覚ましかった。
年齢も近く、同じく次代を担う立場。
秀忠は否応なく己と比べ、嫉妬と卑下の念を募らせていった。
「一文でもええから、恵んでくだされ……。」
「ええい、汚い老いぼれめ! 商売の邪魔だ! さっさと出てゆけ!」
信之は、深く悔いていた。
秀忠の酒量が増え始めたと感じた頃、不興を買おうとも、諫めて止めるべきであったと。
実を言うと、信之は秀忠の奥方から相談も受けていた。
『昼は口にいたしませぬ。
ですが……。夜は、浴びるように飲まれます。
酔われますと、乱暴になることが多く……。
そのまま、閨へと……。
……とても辛いのです。
それが嫌で拒めば……。
今度は、侍女に……』
愕然とするしかなかった。
明らかに『暗愚』の兆しが現れていた。
「豆腐ぅ~、豆腐ぅ~、豆腐はいらんかねー」
「お豆腐屋さん! 待って、待って!」
しかも、である。
信之はすでに、確たる証を得ていた。
先月、秀忠を気晴らしにと遠乗りへ誘った折の出来事である。
たまたま通りがかった村で、川の氾濫についての陳情を受けた。
鷹狩りを楽しんでいる秀忠の興をそぐわけにもいかず、信之は伴を連れ、件の川へと視察に向かった。
「えっほっ、えっほっ、えっほっ、えっほっ!」
「退いた、退いた!」
その隙に、秀忠は村より献上された酒に口をつけてしまった。
信之が戻ると、何度も控えるよう諌めていたにもかかわらず、秀忠は茹で上がったように顔を赤らめていた。
あまつさえ、若い村娘にまで手を出してしまっていた。
乱暴に組み伏せられた娘の頬は、容赦ない張り手を何度も受け、痛々しく赤く腫れ上がっていた。
始末に負えないのは、その後であった。
行為が済むと、秀忠は眠り込み、酔いが覚める頃には己の所業をまるで覚えていないのである。
「格好いいお兄さん、少し遊んでいかない?」
「あれま、無視だなんて、つれないねぇ~」
苦悩の末、信之は決断した。
上にはあえて報告せず、すべてを穏便に済ませることにした。
酒さえ飲まなければ、秀忠は好青年。
信之は医師に命じ、酒を控えるよう厳しく窘めさせた。
被害を受けた村へは、信之自ら懐を痛め、決して軽くはない補償と、厳重な口止めを行った。
花を無惨に折られてしまった村娘は、信之の妻の侍女として迎え、小田原へと送った。
「お武家さん、信州の新蕎麦だよ?
夕餉前の小腹にどうだい?」
どちらかが勝者となり、どちらかが敗者となる。
父と袂を分かったのは、互いに真田家の存続を願ったうえでの決断だった。
たとえ敗北者の側に回ろうとも、恨みは抱かない。
命をつなぐことができたとしても、その先に待つ貧困や苦悩を嘆いたりもしない。
そう覚悟していたはずだった。
しかし、今抱えている苦悩を、信之は予想すらしていなかった。
「……そうだな。
一枚、貰おう。酒はあるか?」
「燗と冷、どちらで!」
「冷でくれ」
「まいど!」
今の立場を得る前、上田での日々を懐かしむことは、果たして罪なのだろうか。
そう自問しながら、信之は誘われるまま、蕎麦屋の屋台の椅子に腰を下ろした。




