第58話 縁側の来訪者
「おーい、ハチぃ~?」
うららかな春の日差し。
縁側で丸くなっている、うちの猫のそばに歩み寄り、そっとしゃがみ込む。
「ニャ?」
「べろべろ、ばあーーっ!」
ハチが頭を持ち上げ、こちらを見たその瞬間。
俺は顔の横に両手を広げ、舌を出した変顔を作った。
だが、ハチの反応はない。
「いない、いない……。ばあーーっ!」
駄目押しに、顔を隠してからもう一度仕掛ける。
ハチはしばらく俺をじっと見つめたあと、再び丸くなった。
どうにも解せぬ。
この家の主は俺なのだから、少しくらい媚を売ってもよかろうと思うのだが。
今朝も、妙に息苦しいと思ったら、寝ている俺の胸の上にハチが乗っていた。
俺はお前の敷布団じゃないと、何度も叱っているのに、それでも直らないのだから困ったものだ。
「ハチぃ~~、どこにいるの~?」
「ニャーン!」
そのくせ、香に対してはこの通りだ。
呼ばれればすぐに駆けてゆき、じゃれついて遊ぶ。
そんなハチのことを、何度も考えてしまう出来事があった。
去年、俺が運命の日を迎えた夜に見た、不思議な夢だ。
大抵、夢というものは、洗顔を済ませるころには忘れてしまう。
覚えていたとしても、どこかぼんやりとしていて、翌日にはもう、ほとんど記憶の彼方だ。
しかし、あの夜に見た夢を、俺は鮮明に覚えていた。
桜吹雪に包まれた、美しい光景。
名勝負を繰り広げる、美男美女の碁。
男の恐ろしさと、女の優しさ。
そのすべてを、俺はこれからも忘れないだろう。
「やっぱり……。喋るわけないよな」
だが、その答えを知っているであろうハチは、何も応えてくれない。
あの夢のように喋らせようと何度も試みたが、ハチはやはり普通の猫だった。
「……碁でも打つか」
俺は溜息をつき、立ち上がって考えるのをやめた。
******
「あれ? ……誰?」
碁石と碁盤を持って、縁側へ戻ってくると、庭に見知らぬ小柄な老人がいた。
白い頭を深く垂れ、平伏していた。
「猿飛の祖父にございます。
今日より、この屋敷の警備を任されました」
「はいはい、聞いているよ。よろしくお願いね」
「ありがたきお言葉にございます」
老人の頭を下げたままの自己紹介に思い出した。
先日、佐助が言っていた。
野に下っていた、かつての同胞たちの大半が『飛騨枝打ち衆』に加わったこと。
それに伴い、屋敷の警備を強化したいこと。
その責任者として、老齢ではあるが、一番の手練れを付けること。
『ですが、その前に挨拶に向かわせます』
『ただ、気難しい爺です』
『不満があるなら、遠慮なく言ってください。すぐに代えます』
そんな話だった。
「じゃあ、早速だけど、碁は打てる?」
俺は老人を碁に誘った。
最近、なんとなく分かってきたことがある。
碁を打っていると、不思議と相手の性格が見えてくるのだ。
石の置き方。
間合いの取り方。
譲るところ、譲らないところ。
盤上には、そのまま人となりが出る。
実際、俺並みにヘボな三成の打ち筋は、実に捻くれている。
それに、一人で詰碁を解くより、対局の方が断然面白い。
「……はっ!?」
老人が勢いよく顔を跳ね上げた。
「ああ、なるほど……。」
「佐助が使っていた『飛猿』の『飛』って、継承名なんだ?」
「お爺ちゃん、『飛び加藤』だよね?」
その目を見開いた顔を見て、俺は老人の名を即座に悟った。
「ふっふっふっ……。高く評価していただけるのは嬉しいですが、違います」
「いやいや、『飛び加藤』でしょ?
どうして嘘を付くの?」
「私は甲賀の生まれにございます。
しかし、かの『飛び加藤』は風魔の者と聞きます。
それに……。五十年も昔に、武田様の書を盗み、処刑された。
とても有名な話にございます」
老人は含み笑いを漏らし、静かに否定した。
だが、俺には自信があった。
またしても、法則『俺の顔見知りは脇役』が当てはまっていたからだ。
垂れ目に、ふさふさの眉。
中学一年のとき、親が家を建て替えた際、現場にいた大工の一人『鳶の加藤さん』だ。
好奇心に負け、建前の最中の屋根に上り、強烈なゲンコツを喰らった。
その記憶と共に、今でも覚えていた。
「うんうん、そうだね。
そういうことに『した』んだね」
しかし、俺は察しと思いやりの男。
忍びという立場を慮り、したり顔で二度、三度と頷いてみせた。
「じゃあ、なんて呼べばいいのかな?
名前くらい知っておきたいしさ」
「……お好きなように」
それに、『加藤』という姓。
どうしても『加藤清正』を思い出してしまい、日々呼ぶには、少々わだかまりがあった。
「だったら、段蔵で!」
でも、『鳶の加藤さん』の印象が強すぎた。
だから、『飛加藤』の名前で呼ぶことにした。
「ぐっ!? い、いや……。
い、いえ……。で、では、そちらで……。」
「じゃあ、段蔵。碁は打てるの?」
「う、打てますが……。」
段蔵は顔を引きつらせるが、好きにしろと言ったのは、段蔵自身だ。
俺は間違っていない。
「よし、打とう!
さあ、座って、座って!」
問題も解決したところで、俺は掌で碁盤の向こう側を指し示した。
「お待ちを!」
「うん?」
「……私に屋敷へ上がれと?」
「えっ? 俺がそっちへ行く?」
ところが、段蔵が右掌を勢いよく突き出した。
俺は首を傾げたのち、やがて納得して立ち上がり、碁盤を持ち上げた。
なるほど、庭で碁か。
風流で実にいい。
「お待ちを! お待ちを!」
「……何なのさ?」
すると、段蔵は左の掌まで勢いよく突き出した。
わけが分からない。
俺は縁側の上がり石にかけた足を止めた。
「貴方様は、我らの主にございます」
「うん、そうだね」
「我らは、忍び」
「うん、そうだね」
「主が上、我らは下。
対面して座るなど、もってのほかにございます」
段蔵は差し出していた両手を揃え、音もなく地へ置いた。
そして、深々と頭を垂れた。
「まあ、外ではきちんとしてほしいけどさ」
「普段は気楽に行こうよ? 疲れるし」
その隙を突き、俺は段蔵へと歩み寄った。
いや、あの佐助が手練れと評した忍びだ。
俺が近づいた程度、段蔵は即座に察しているに違いない。
「第一、家臣たちなんて、俺のこと全然敬ってないよ?」
「……ったく、段蔵の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ」
俺は碁盤を段蔵の前へ置き、そのまま腰を下ろした。
「ところで……。石はどっちがいい?」
「譲ってくれるなら、俺は黒がいいんだけど?」
碁は、黒を持った方が有利になる。
段蔵の実力はまだ分からない。
だが、どうせなら勝ちたい。
「はぁーーー……。」
一呼吸の間が落ち、深々とした溜息が聞こえた。
「あれ? やっぱり黒がいい?」
「いえ、白で結構です。お相手をさせて頂きます」
頭を上げた段蔵の微笑みには、先ほどまでの険が消えていた。
******
「えっ!? ……そ、そこ?」
「もう待ちませんぞ?」
「ぐぬぬっ!」
俺は、けちょんけちょんにされた。
俺が知る中で一番の打ち手『真田昌幸』並に、段蔵は強かった。




