第56話 俺は無敵だ!
「はっ!?」
唐突に意識が浮上し、勢いよく目を見開いた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天幕の天井。
外からは、チュンチュンとスズメたちのさえずりが聞こえてくる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
息が激しく荒い。
上半身を起こすと、顔から汗が滴り落ちた。
辺りをキョロキョロと見渡せば、108本のロウソクが燃え尽きている。
だが、天幕の白い布越しに淡い光が滲んでいる。
それだけで、すでに夜が明けたのだと知れた。
「うわっ……。最悪だよ」
しかし、それ以上に異変があった。
股間に残る、嫌な冷たさ。
寝小便だけではない。寝グソまで漏らしてしまっているではないか。
臭いがきつくて、褌の中がめちゃくちゃ気持ち悪い。
俺は思わず頭を抱え、どうしようかと悩もうとして、気付いた。
「……そ、そう、そうだ!」
今が朝なら、今日は慶長7年10月19日。
つまり、俺は『小早川秀秋』の命日を、運命を乗り越えたことに他ならない。
止めどない喜びに立ち上がった瞬間、足下におみそがぼとぼとと落ちた。
「フハっ! ……フハハハハっ!」
だが、今の俺は無敵だ。
高笑いをあげ、大股で歩き出す。
天幕の出入り口を勢いよく跳ね上げれば、眩しい朝陽が差し込んだ。思わず目を細める。
「殿、ご無事で……。
……って、臭っ!? 臭あああっ!?」
すぐ傍に控えていた平岡のおっさんが、声を裏返らせた。
不安に揺れていたその表情がみるみる強張り、次の瞬間には顔を背ける。
鼻を摘んだまま、十歩ほど後ずさった。
「妙に臭えと思ったら、殿様が原因かよ!」
「鼻がひん曲がる!」
「何食ったら、こんな臭くなるんだ!」
「真夏の肥溜め並だ!」
足軽たちもまた、一斉に俺から距離を取った。
どいつもこいつも、運命を見事に乗り越えた主君を迎える態度として、いかがなものか。
臭いのは分かる。
俺自身も臭いから。
しかし、もう一度言おう。
今の俺は無敵だ。
どんなに失礼でも、ちっとも気にならない。
「フハハハハハハハハハっ!」
この喜びを伝えたい。
一人でも多くの人に伝え、喜びを共有して欲しい。
気づけば、俺は全力で駆け出していた。
「と、殿……。と、とうとう頭が……。」
背後で、平岡のおっさんが茫然とした声で失礼の極みを漏らしていたが、気にならなかった。
******
「フハハっ! 命日を乗り越えちゃったよ!」
俺はオグリに跨り、風になっていた。
草を裂き、大地を蹴り、ただひたすらに駆ける。
「だから、10月19日はハッピーホリデー!」
道中、オグリがあまりに鼻をフガフガと鳴らすから、川で一浴びして汚れは落としてある。
でも、俺の喜びは、着物が乾くのを待っていられなかった。
だから、今の俺は褌一丁の姿である。
肌を刺す初冬の寒さが、むしろ心地よかった。
吐き出す息が白く染まっても、俺の心は熱く、熱く燃えていた。
「よーし、日本の祝日にしちゃうぞー!」
改めて、言おう
今の俺は無敵だ。
どんなに羞恥も、まるで気にならない。
******
「小早川秀秋! 小早川秀秋!
生きております! 小早川秀秋は、今日も生きております!」
朝の賑わいを見せる大阪の街を、オグリで疾走する。
人々は道を開け、何事かと眼差しを向け、俺を指差す。
当然だ。今の俺は髷を結っていなければ、褌一丁の姿なのだから。
「ありがとうございます! ありがとうございます!
大阪の皆様! 本当にありがとうございます! 皆様のおかげです!」
大事なことなので、もう一度だけ言いたい。
今の俺は無敵だ。
奇異の目を幾らでも向けられようが、へっちゃらの屁の河童である。
「ご声援、感謝です!
皆様の小早川秀秋が、大阪に帰って参りました! ありがとうございます!」
むしろ、笑顔で手を振り返しちゃう。
******
「うおおおおおおおおおっ!」
大阪城では、二の丸より先は原則として馬が禁じられている。
そのため俺は、己の脚で駆けていた。
何度も呼び止める声が響く。
だが振り返らない。ただ前だけを見て走り続けた。
今の俺にとって、この喜びを伝えるのは義務だ。
天下に余すところ無く伝えなければならない。脇目は振れない。
「おらおらおら、おらあああああっ!」
本丸の階段を一気に駆け上る。
日頃は、『これ、無駄に急じゃね?』とボヤいていた角度も気にならない。
「おらっ……。おらおらっ……。」
でも、ちょっと息切れ。
四階まで上がったところで、膝に両手を突き、激しく肩を上下させながら小休止した。
何やら階下から『右大臣様、ご乱心!』の叫びが届くが、再び上へと登り始める。
「フハっ! ……フハハハハハハハハハっ!」
そして、ついにたどり着いた天守閣。
外へ出る雨戸をスパーンと音を立てて、両手で左右に勢いよく開いた。
日本晴れの大阪の街を、眼下に望み、俺は息を思いっきり吸い込む。
「おめでとおおおおおおおおおおーーーーーうっ!」
胸が張り裂けんばかりの絶叫。
良し、これで天下に俺の喜びは伝わったに違いない。
俺は大満足だ。




