第55話 光と闇の名勝負
『あの二人だな……。』
声は出さず、心の中で呟く。
ハチが指し示した先へ歩みを進めると、やがて奇妙な場所へとたどり着いた。
そろそろ本格的な冬を迎える時期だというのに、桜の木々が満開に咲き誇っている。
そよ風に舞い散る花びらは、地を桜色の絨毯へと変えていた。
一際大きな桜の根元。
黒い着物の男と、白い着物の女が向かい合い、静かに碁を打っていた。
決して、声を出してはならない。
気づかれてもならない。
ハチと交わした約束を胸に刻み、息を殺しながら、二人へと近づいてゆく。
『……というか、この夢は何なの?』
二人から半歩離れた位置に、そっと正座する。
碁盤を覗き込んだ瞬間、ヘボな俺でもはっきりと分かった。
これは名勝負だ。
一手、また一手。
石が置かれるたび、痺れるような感覚が背筋を走った。
『おっと、いけない。
ハチに言われた通りにしなくっちゃ』
だが、ふと我に返る。
ハチが用意してくれた酒を、杯に音をたてないように注ぐ。
そして、二人の傍にそっと置いた。
『夢なのに、酒の匂いがする。
……マジで何なんだよ。これって?』
続いて、ネギマを盛った皿も置く。
男女を盗み見て、そこで気付いた。
超絶の美男美女だ。
思わず息を飲みかけ、その音すら聞かれまいと、慌てて口を押さえる。
『ふーーー……。危ない、危ない』
どうやら二人は、碁に夢中で、俺の存在には気づかなかったらしい。
だが、視界の端に置いた酒とネギマには、気付いた。
男女は碁を打つ手を止めぬまま、酒を口に運び、ネギマをつまみ始めた。
『……あれ? どういうこと?』
俺も、男だ。
そこに美女がいれば、見たくもなる。
ところが、奇妙な現象が起きた。
男女と碁盤が一緒に視界へ収まっている時は、たしかに女の姿が見えていた。
だが、女だけに意識を向けた瞬間。
その姿は、光り輝き、輪郭すら掴めなくなった。
見たかったボインちゃんが、どこにあるのかさえ分からない。
眩しさに耐えきれず、男へと視線を逃がす。
『へっ!?』
その瞬間、今度は男が、深い闇に包まれた。
光と闇の違いこそあれ、起きている現象は同じだった。
慌てて碁盤へ視線を戻す。
すると、男女の姿が、視界の端にかろうじて映る。
この不思議な現象は、何なのか。
ボインちゃんは、たしかにそこにあるが、どうしても見えない。
慎重に盗み見ようとしても、意識を向ければ向けるほど、女の姿はますます強く光り輝いた。
『つまらん……。非常につまらん!』
残念だが、仕方がない。
ハチに言われた通り、俺は盃が空になったら酒を注ぐロボになった。
******
「フフ、どうやら私の勝ちのようね」
碁は、女の勝利で幕を閉じた。
同時に、空気が変わった。
俺は反射的に、慌てて頭を下げる。
「何者だ! なぜ、ここにいる!」
俺に気付いた男が、怒鳴った。
殺気を超越した何か。
死を直感させる気配が、鋭く俺の肌を刺す。
思わず悲鳴をあげそうになるのを必死に堪え、ぶるぶると震える。
声は出さず、ただ頭を下げろ。
それで、俺の望みは叶うとハチは言っていた。
だが、無理だ。
水たまりが広がると共に、尻がブリブリと情けない音を立てた。
「ふぅ……。落ち着きなさい。
こんな企みが出来るのは、彼しかいないでしょう?」
そんな俺に、救いの手を差し伸べてくれたのは、女だった。
女が小さく溜息をつく。
その瞬間、死の気配が遠のいた。
「……また、あいつか」
鷲掴みにされ、締め付けられていた胸が、波が引くように、ようやく楽になる。
「それに……。碁に夢中だったとはいえ、私もあなたも賄賂を貰ってしまったわ」
「……のようだな」
息が戻り、肩を荒く上下させる。
全身に汗がぶわっと噴き出した。
顔から次々と滴り落ちた雫が、間近に広がる桜色の絨毯を、じわりと色濃くしてゆく。
俺はただ、夢の中で、ハチに言われた通りのことをやっただけなのに。
「フフっ……。顔を上げなさい」
女の微笑みを含んだ優しい声が、耳へ届く。
涙と鼻水でぐちょぐちょに濡れた顔を、俺はおそるおそる上げた。
情けない限りだ。
せめて、この顔を拭いたかった。
しかし、要求に応えず勝手なことをすれば、再びあの死の気配が迫ってくるのではないか。
その恐怖が、俺の身体を縛りつけていた。
「ほら、脅かしたお詫びもしないと」
視線を直接向ける勇気はない。
俺は碁盤へ目を落とし、視界の端でそっと二人の姿を捉える。
「……姉上は甘いな」
男が溜息をつき、虚空へ手を伸ばす。
何もなかったはずの空間に、滲むように巻物が浮かび上がる。
それは、最初からそこに在ったかのように、男の手へ収まった。
「小早川**……。寿命は二九歳か」
俺は目をこれでもかと見開いた。
男が読み上げたその名。
それは、もう二度と呼ばれることはないと、そう思っていた名前。
現代で、両親が付けてくれた俺の名前だった。
二重の意味で混乱する。
史実における『小早川秀秋』の命日は、今日。
ならば、今の俺『小早川秀秋』の寿命は、二十歳ではなかったのか。
「貸して」
女は左手を男へ差し出し、同時に右手を虚空へ伸ばした。
何もないはずの空間から、するりと現れる一振りの筆。
右手の中に収まったそれは、毛先に墨を含んでいた。
女は、巻物に筆を滑らせ、ニッコリと微笑んだ。
「はい、『二』に四画足して、百九歳にしておいたわ」
「だが、あくまで『寿命』だ。
不慮の事故までは避けられぬと心得ろ」
未だ、理解が追いついていない。
だが俺は、無意識のうちに頭を下げていた。
精一杯の感謝を、二人へ伝えて。




