第53話 運命の時まで、あとわずか!
「今夜は、満天の星空だな……。」
大阪の東。
天を支えるかのように、一本の大きな桑の木がそびえている。
行き交う人々はその威容にふと歩みを緩め、木陰はいつしか憩いの場となっていた。
その静かな影の内で、俺はそっと衣を改める。
「北斗七星がよく見える。
ふっ……。そのわきで輝く小さな星までも……。」
ほど近くを流れる小川で身を清め、髷をほどき、白き着物へと袖を通す。
素肌に触れた布の冷ややかさが、これから執り行われる儀の気配を、いっそう鮮やかに際立たせた。
「……ということで、これより祈祷を行う!」
深く息を吸い、居住まいを正す。
むん、と気合いを込め、俺は声を張り上げた。
これで、準備は整った。
「何が『ということで』すか? はぁ……。」
平岡のおっさんは、これ見よがしに深々と溜息をついた。
腕を組み、じとりと向けてくるその眼差しは、やけに白々しい。
「おいおい、俺が死ぬか、生きるかの問題だぞ!」
あまりの温度差に、俺は激昂した。
声を荒らげ、半ば怒鳴りつける。
「……殿が死ぬ?」
「はっはっはっ! ないない!」
「たとえくたばっても、地獄を追い返されて戻ってきそうな殿が?」
「あり得ませんな! はっはっはっ!」
平岡のおっさんは、腹を抱えんばかりに大爆笑した。
右手をひらひらと振り、遠慮もなく喉の奥まで見せてきた。
「おい……。俺は死んだら、地獄行き確定なのか?」
俺はこめかみを引きつらせる。
医者は、俺を『健康そのもの』と診断した。
古満たちと仲良くする頻度に眉を顰め、今後は週に一日は必ず休み、回数も控えるよう戒められた程度である。
だが、今日は俺が知る史実における『小早川秀秋』の命日。
どうしても、不安が拭いきれず、悩んで、悩んで、悩み抜いた末に出した結論。
それが、藁にも縋る思いの神頼み。すなわち、祈祷だった。
「えっ? まさか、極楽に行けるつもりだったんですか?」
「くっ……。どうして俺の家臣たちはこうも敬意が足りないんだ。
俺は右大臣様だぞ! 偉いんだぞ!」
「はいはい、そうですね。偉いですよね。
まあ、殿の奇行には慣れましたので、用意は抜かりなく整えましたよ」
確かに、非は俺にもある。
夕方前に帰宅するなり、祈祷の準備を今すぐ整えろと言い出したのだから。
荷物の運搬に、人員の手配。
天幕の設営に、祈祷のための祭壇の設置。
きっと、平岡のおっさんは大忙しだったに違いない。
『自室では駄目なんですか?』
『駄目駄目! こういうのは雰囲気が大事なんだよ!』
『では、寺社に場を借りてまいりましょう』
『馬鹿! それはそれで、何かこう……、畏れ多いだろうが!』
当然の要求を退け、わざわざこの場を選んだのも、すべて俺のわがままだ。
だからこそ、平岡のおっさんの愚痴も、甘んじて受け入れて構わない。
それに、平岡のおっさんの嫌味混じりの小言はいつものことだ。
「ねえ……。今、『奇行』って言った?」
「滅相もございません。」
「言ったよな?」
「ご覧の通り、祈祷の場も、それを守る兵も手配済みにございます」
「無視するなよ!」
しかし、今夜の嫌味はいつもよりチクチクと突き刺さった。
俺はこめかみどころか頬まで引きつらせ、平岡のおっさんが指し示す先へと視線を向けた。
天幕の周囲で燃え立つ篝火。
爆ぜる火の粉が夜を焦がし、辺りを赤く照らしていた。
足軽たちは整然と並び、天幕を囲んでいる。
その姿だけ見れば、実に頼もしい。
甲冑もきちんと着込み、立番も怠ってはいない。
「わっはっはっ! 殿様、今夜は何の祝いなんだ?」
「おいおい! この肉、いけるぞ!」
「ああ、酒が進むな!」
だが、肝心要の槍を手にしていない。
握っているのは、肉と酒。
槍はというと、仲良く地面に転がっていた。
いつもの顔なじみ、小早川家の足軽たちだった。
俺はゆっくりと視線を戻し、平岡のおっさんをギロリと睨みつけた。
「あいつら、なんで飲んでるんだ?」
「まあ、酒でも飲んでなければ、殿の奇行には付き合ってられませんしね」
「また言った! 『奇行』って言った!」
しかし、平岡のおっさんは涼しい顔で肩を竦めた。
どうにも解せぬ。
日頃は俺に規律だ節度だと口うるさいくせに、あまりにも不公平がすぎる。
「殿様の長生きを願ってー!」
「乾杯ー!」
一応、名目だけは足軽たちにも行き渡っているらしい。
もっとも、あいつらが俺の金で飲み食いするのは、今夜に限った話ではない。
今は大事の前の小事。
俺は、寛大な心で許すことにした。
「くそっ……。とにかく、祈祷を始める!」
こうなったら、勝手にしろ。
そう自分に言い聞かせ、俺は祈祷を始めるべく天幕へと歩き出す。
「俺が出てくるまで、誰も入れるなよ!
特に、反骨の相を持っているやつは、身体を張ってでも止めろよ!」
これから行う祈祷における最大の注意点を怒鳴って。
もし『反骨の相』でピンときたなら、お分かりだろう。
これから行う祈祷は、三国志で余命僅かと悟った『諸葛亮』が、北斗七星に願った逸話の真似である。
北政所から『祈祷を受けてみたらどうか』と勧められたとき、真っ先にこの逸話が思い浮かんだ。
ちなみに、諸葛亮は祈祷に失敗している。
理由は単純。この祈祷は、必ず一人で行わなければならない。
それを承知のうえで、『反骨の相』を持つ者が、祈祷中の諸葛亮の天幕に乱入したのだ。
「はんこつのそう?
……どういう人物ですか?」
「えっ?」
ところが、平岡のおっさんに問われ、俺は困った。
「殿?」
「いや、だから、その……」
ここで、逸話に登場する『反骨の相』の持ち主『魏延』の名を挙げるのは簡単だ。
しかし、『反骨の相』でピンとこないのだから、平岡のおっさんは三国志を読んだことがないのだろう。
正直、俺自身、三国志はあまり詳しくない。
中学校の図書館に揃っていた全60巻の漫画を、暇つぶしに読んでいた程度だ。
『反骨の相』は『魏延』であり、『魏延』は『反骨の相』と覚えているだけで、具体的にどんなものかは知らない。
「……どういう人物だろう?」
「はぁ? 聞いているのは、私ですけど?」
問い返してみると、平岡のおっさんの眉を寄った。
まずい。また嫌味をぶっ刺される。
俺は頭をフル回転させ、それっぽい答えを必死に考える。
「そうだ! 三成と宗茂だ! いかにも『反骨』って感じ!」
そして、右拳で左掌を叩き、力強く頷いた。
もし、三成と宗茂が俺の行方を追ってここに来たら、絶対に邪魔する。間違いない。
平岡のおっさんは目を細め、じっと俺を見据えた。
「ははぁーん……。」
「お早い帰りだと思ったら……。」
「また仕事を放り出して、逃げてきましたね?」
思わず俺はぎくりと身体を震わせた。
俺は悪くない。
今夜、生死の運命が目の前に迫っているというのに、仕事なんてやってられるか。
三成と宗茂が俺の机に積み上げた書類は、明日の俺がきっと何とかするだろう。
その明日を得るためにも、祈祷を行う必要がある。
そう、俺は間違っていない。
「うるさい! 祈祷を始める!」
「はいはい、成功すると良いですね」
ただ、この場に居続けたら、嫌味を言い続けるのは確実だ。
俺は天幕へと足早に向かった。




