第52話 忘れていた運命の日
「かーーーっ! しょっぱい!」
大阪城の奥深く、北政所の私室。
塩辛い、刻んだナスの漬物を乗せた味噌汁かけご飯を、無心にかっ食らう。
啜り、噛み、また掻き込む。
塩気と汁の染みた飯が喉を落ちていくたび、腹の奥が静まっていく。
昨夜は脂の乗った焼き鯖に舌鼓を打った。
だが、俺の魂が心底欲するのは、結局これに尽きる。
「ほんとに、それが好きだねぇ~」
そんな俺を、北政所は暖かくも優しい眼差しで、にこにこと眺めていた。
大阪に滞在している間は、週に一度、必ず食事を共にする。
刻が朝であれ昼であれ夜であれ、北政所は俺の都合に合わせてくれる。
それが、俺たち二人の約束だった。
「雪のも美味しいんだけどさ。
母さんのと比べると、何かがちょっとだけ足りないんだよね」
ところが、今年の夏の初め頃から、それは崩れ始めた。
『明日の昼はどうだい?』
『明後日の夜は空いている?』
『そろそろ鱧が美味しい時期だよ? 一緒に食べないかい?』
北政所から、しきりに伺いを立てられるようになった。
先月末、美濃から帰ってきてからは、ほぼ毎日、一度は食事を共にしている。
今朝なんて、茶々と仲良くなった帰り道を、待ち構えられて捕まってしまった。
それはつまり、北政所が俺の昨夜の行動を把握している、ということだ。
現代の感覚を持つ俺としては、当初こそ、気恥ずかしさを覚えた。
だが、何度も経験した今では、もうすっかり慣れている。
「まあ、糠床は何年もかけて育てるものだからね。
一年や二年で肩を並べられたら、誰だって名人だよ」
それ以前に、北政所が俺の女性関係をすべて把握しているという事実が、恐ろしい。
俺には古満、雪、静と、奥さんが三人。
それに、国家機密扱いの茶々。
そして実は、誘惑に負けて関係を持ってしまった女性が、もう一人いる。
百歩譲って、茶々は分かる。
北政所と茶々は、同じ大阪城内に住んでいるのだから。
「なるほどね……。おかわり!」
「あいよ」
しかし、秘密の彼女は、大坂より少し離れた堺に暮らしている。
慎重に、警戒に警戒を重ねてきたはずの関係だ。
俺の偽装は完璧。堺の住人たちにも『遊び人の秀さん』の名で定着している。
それでも北政所は、なぜか知っていた。
しかも、秘密の彼女と親しくなった翌日には、必ず『避妊に気をつけろ』と釘を刺される。
北政所が、恐ろしくて、恐ろしくて、どうにもたまらない。
言えない、とても言えない。
彼女が俺との子どもを強く望んでいる。それを口が裂けても言えない。
「……ふふっ」
「ん? どうしたの?」
北政所は、お櫃からご飯をよそいながら、静かに笑みをもらした。
おかわりを待つ間の手持ち無沙汰を、庭をぼんやり眺めてやり過ごしていた俺の視線が、北政所へと戻る。
その微笑みは、嬉しさを堪えきれない。そんなふうに見えた。
「顔色もいいし、食欲もありそうだからさ。
安心したんだよ」
まるで、俺が重篤な病から回復したかのような口ぶりだ。
「んっ? 別に、どこも悪くないけど?」
俺は戸惑うしかなかった。
なにしろ、俺はすこぶる元気だ。
三成と宗茂に、仕事を次々と押し付けられ、多少のストレスを感じているが、せいぜいその程度だ。
昨夜だって、ついつい求められるまま、茶々と五回も仲良くなってしまった。
「えっ!?」
「えっ!?」
北政所は目を見開き、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
そのあまりに大きな反応に、俺も思わず目を見開く。
一呼吸、二呼吸、三呼吸。
朝の静寂の中に、コトリ、と小さな音が響いた。
北政所が、ご飯を盛っていた俺の椀を、そっと自分の膳へ置いた音だった。
「まさか……。忘れたのかい?」
俺を見る北政所の眼差しが、すっと細められる。
その眉間には、はっきりと皺が刻まれていた。
「へっ!? ……な、何を?」
身に覚えのない叱責に、俺は戸惑いを深めるしかなかった。
再び、一呼吸、二呼吸、三呼吸。
北政所は深々と溜息を漏らし、纏っていた雰囲気を、怒りから呆れへと変えた。
「まったく……。
私は夏頃から、ずっと気を揉んでたっていうのに」
そう言って、両の人差し指でこめかみを揉んでみせる。
「だ、だから、何の話?」
思わず声が上ずる。
本気で心当たりがない。
「このお馬鹿! 耳をお貸し!」
「は、はい!」
北政所は周囲を確かめるように左右へ視線を走らせ、そっと俺を手招いた。
俺は慌てて両手と膝を使って滑り、座ったまま北政所との距離を詰め、言われるまま耳をその口元へ寄せる。
「……そろそろじゃないのかい?
あんたが言ってた、秀秋が亡くなった日ってのは……。」
「ああっ!?」
そして、目をこれでもかと見開いた。
思わず上半身を仰け反り、尻もちをついたように、後ろへ両手を突いた。
「今日って、10月……。」
「……18日だよ」
俺は『小早川秀秋』について、誰よりも詳しい自負がある。
史実の小早川秀秋の没年は慶長7年、没日は12月1日。
西暦に直せば、1602年。
すなわち、今年。
日付を新暦から旧暦へ換算すれば、10月18日。
すなわち、今日。
「きょ、きょきょきょっ……。今日じゃん!」
三成と宗茂に終わらない仕事を押し付けられて辛い日々。
稲葉のおっさんには怒鳴られ、平岡のおっさんには呆れられる。
だが、古満がいて、雪がいて、静がいる。
まだ関係を公にすることは出来ないが、茶々もいるし、もう一人の彼女もいる。
現代では到底あり得なかった、キャッキャッウフフの満ち足りた幸せな毎日。
そのせいで、俺は、大事なことをすっかり忘れていた。
自分の愚かさに、血の気が引いた。
「ほ、本当に大丈夫なのかい?
い、息が切れたり、胸が早くなったりしてないかい?
と、父ちゃんも……。一気に弱り始めたんだよ?
い、医者を呼ぼうか?」
先ほど北政所に言った通り、俺は健康体だ。
しかし、急に息が上がり、心臓が騒ぎ出した。
いや、『病は気から』だ。
落ち着け。
冷静になれ。
「……だ、大丈夫。
た、多分……。き、きっと……。
お、恐らく……。
で、でも……。ね、念のため、医者に一応診てもらおうかな?」
まずは、深呼吸だ。
俺は右手を胸に当て、大きく息を吸って吐く。
それをしばらく、何度も繰り返した。




