第49話 淡紫の下で
「ここが……。太宰府天満宮!」
立花山城と久留米城の間にある太宰府天満宮。
暦は七月下旬、季節は夏。
現代なら暑すぎる盛りのはずだが、それほどでもない。冷夏なのだろうか。
たとえば、縁側に打ち水をすれば、それだけで割と涼しい。
風が通る家なら、気持ちよく昼寝だってできてしまうほどだ。
だが、ここは神社。
沿道から入った大鳥居を潜ると、敷き詰められた石畳は陽に焼かれ、足元からじりじりと熱が立ち上っていた。
境内へ吹きこむ風も、山間を通り抜けるはずの涼気をどこかへ置き忘れたようで、肌に触れると少しばかり重たい。
「ねえ、飛梅を見に行きましょ!」
「はい、楽しみです!」
古満と雪がしずしずと歩いていたのは、大鳥居をくぐって数歩のあいだだけ。
太宰府天満宮の歴史を確かめるように慎重だった足取りは、いつの間にか弾むように変わっていた。
「ほら、雪! 早く、早く!」
「わわっ!? 古満様、そんなに急かなさいでください!」
今では、古満が雪の手を引き、参道の奥へと小走りで向かっている。
参道に並ぶ木々の影が、二人の足元をまだらに追いかけ、ふたりの袖が軽く揺れ合う。
「ふふっ……。朝末、二人を頼む」
「はっ! お任せを!」
その遠ざかってゆく後ろ姿を眺め、俺は参道をゆっくりと進みながら思わず微笑む。
今、太宰府天満宮は俺たちが貸し切っており、他の参拝客の姿はなく、静けさの中に蝉の声だけが響いていた。
関ヶ原の戦いの後、岡崎城攻めに出陣した朝。
雪を太宰府天満宮に誘ったのは、小早川秀秋の領土である筑前、筑後の中で、自分が知っている観光地をただ挙げたに過ぎない。
しかし、太宰府天満宮という場所に、大きな意味があることを後になって教えられた。
その昔、太宰府は九州における政治の中心地だった。
室町幕府の衰退とともに、戦国大名たちによる争奪戦の舞台となり、太宰府天満宮をはじめ多くの寺社は戦火に巻き込まれた。
「十年前は焼け野原だったって聞くから……。
ずいぶんと熱心に再建したんだな。凄いよなー……。」
その荒廃を復興させたのが、小早川秀秋の義父である『小早川隆景』だ。
彼の手によって寺社は再建され、参道は整えられ、今の太宰府天満宮の姿が形作られた。
太宰府天満宮は『菅原道真公』を祀っている。
だが、小早川家の者にとっては、ここに来ることはまるで『小早川隆景』に挨拶をするようなものだ。
「そう思うと、なんか緊張するな……。
今更だけど、俺が来ても良かったんだろうか?」
そのため、古満は太宰府天満宮を訪れることを、ずっと望んでいたらしい。
ところが、小早川秀秋の浮気と隠し子が発覚した。
古満は一方的に離婚を宣言し、実家である毛利家本拠地の広島へ帰ってしまった。
そんな古満と仲直りできて、本当に良かった。
雪ともまるで本当の姉妹のように仲が良い。
俺が加藤清正との一騎打ちで名誉の負傷をしたと知れば、毎日のように連名で手紙が届いた。
一か月ほど熊本城城下で療養している間も、その手紙を励みにして快気に務め、退屈な日々も耐えることができた。
「まっ……。傷跡は残ったけど、勲章みたいなもんだよな」
今では傷も塞がり、日常に支障はない。
医者によれば、鎌の刃は内臓を運良く避けていたものの、あと少しでもずれていれば命に関わるところだったという。
だが、俺からすれば、医者が消毒のために吹きかけた焼酎のほうが、よほど死にそうになった。
寝ている俺の手足、肩、腰を六人がかりで押さえつけられていても、体が跳ねる激痛を感じ、医者が訪れる朝食後が憂鬱で仕方がなかった。
二週間ほどは腹をきつく包帯で巻かれ、塗りたくられた軟膏もひどく臭かった。
贅沢は言えない。現代のような医療を望めるはずもない。
それなりの身分だからこそ受けられた治療だ。
深い切り傷には馬糞汁を使う。
戦国時代の豆知識としては知っていたが、足軽の常識だと聞き、さすがにめまいがした。
俺には医療の知識はない。
何とかしてやりたいと思っても、結局何もできないのが現実だった。
「殿……。」
「んっ!?」
「参道から外れますが、あちらの方にムラサキシキブが見事な花をつけています」
そんなことを考えていたら、ふと付き従う家臣に声をかけられた。
正直なところ、『ムラサキシキブ』と言われても、どんな花なのかまでは分からない。
俺の知識の中にある『ムラサキシキブ』といえば、源氏物語で有名なあの歌人『紫式部』だけだ。
「おっ!? 良いね!」
だが、せっかくのお誘いである。
俺は本殿へ続く石畳から外れ、家臣の指し示す茂みの方へと歩を進めた。
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「おおっ……。ほんのり甘い香りがする」
夏の日差しを受けて淡い紫色に染まる花々が、風に揺れながらやわらかな香りを放っている。
俺は笑顔を浮かべながら歩みを進めた。
淡い紫の花を見ていると、ふと同じ色の着物を好んだ茶々の姿が思い出され、胸の奥にわずかな寂しさが差し込む。
あと一ヶ月ほどの辛抱だ。
立花山城に戻り、九州に関するあれこれの処理を済ませれば、大阪へ帰ることができる。
「……となると、九月の頭くらいかな?
まっ、これ以上、何かが起きるはずないもんな」
土産は何にしようかと考え、先日食べたカステラが脳裏に浮かんだその時だった。
「ととしゃま!」
「……んっ!?」
多分、二歳か三歳ぐらいだろうか。
舌足らずの女児が少し危なげな足取りで駆け寄り、俺の足に抱きついてきた。
「こ、こらっ! ひ、控えなさい!」
女児が駆けてきた先を見れば、平伏する女性がいた。
俺の中でサイレンが鳴り、パトランプがくるくると回る。猛烈に嫌な予感がした。
ここに至って、ムラサキシキブはおびき寄せる餌に過ぎず、本命は女性と女児であったと悟った。
「ええっと……。どういうことかな?」
答えを知りたくはなかったが、それでも知らずにはいられなかった。
努めて冷静に後ろを振り返ると、答えを持っているだろう家臣は土下座をしていた。
「お許しを得ず、申し訳ございません!
ですが、孫に父親の顔をどうしても見せてあげたく、勝手なことをしてしまいました!」
「なるほど、なるほどね……。
そっか、そっか……。うん、分かる。分かるよ」
どうやら、九州における最大の敵は、加藤清正ではなかったようだ。
女性は小早川秀秋の浮気相手であり、女児は古満が離婚宣言するきっかけになった小早川秀秋の娘だった。
関ヶ原の戦いの後、目の前で土下座している家臣が『家康との騒動が落ち着いたら、ぜひ一目でも会ってやってください』と言っていたのを、すっかり忘れていた自分を呪った。
「かかしゃまとじぃじをいじめちゃめーなの!」
「まあ、何だ……。うん、この子もこう言ってるし、顔を上げたら?」
しかし、もう覚悟を決めるしかない。
俺は顔を引きつらせながらも、力いっぱいに抱きしめて抗議してくる女児の頭をそっと撫でた。




