第42話 義兄の涙、義弟の覚悟
「うん……。いい庭ですね」
広さはないが、縁側から見える庭は見事なものだった。
手入れの行き届いた白砂が隅々まで鮮やかに敷き詰められ、岩組みのあいだには深い緑の苔がしっとりと息づいている。
飛び石の先に広がる池では、錦鯉がゆるやかに尾を揺らし、地の畔では老松が堂々と枝を張っていた。
ただ庭師に任せきりでは、この趣は生まれまい。
屋敷の主みずからが目を配っている証である。
「ふっふっ……。そうだろう?
だが、久留米の屋敷はさらに見事だぞ?
去年、立派なさざなみ石を手に入れてな。あれがまた、見事に庭を引き立てておる」
背後から覇気こそないが、嬉しそうな声が聞こえ、俺は笑みを浮かべて振り返った。
病床に伏した義兄、小早川秀包の顔色は悪い。
身を起こすこともままならず、かろうじて顔だけをこちらに向けていた。
正直なところ、俺は『さざなみ石』と言われても、それがどんな石なのかは分からなかった。
だが、今この場でそれを口にするほど無粋ではない。
「ほほう、それは楽しみです」
俺は小早川秀包の元へ歩み寄り、腰を下ろしてあぐらをかいた。
関ヶ原の戦い前日、小早川秀包は近江南方の大津城の攻めに加わり、翌日には城を開城させたところであった。
その後、三成の要請を受け、岐阜城まで進軍した際、ちょうど俺が岡崎城攻めに岐阜城を発つ間際だった。
遅まきながら、黒田孝高の九州での暗躍に気付いた俺は、小早川秀包にすがった。
秀包も、自身の所領が危ういことを悟り、九州急行を快く承諾してくれた。
しかし、立花山城に到着したその折、秀包は突然発病し、血を吐いて倒れた。
「……秀秋よ」
「はい、何でしょう?」
「俺は……。俺はもう駄目だ……。」
総大将が病床に伏していては、士気が上がるはずもない。
一万五千の軍勢を率いた黒田孝高が立花山城を攻めると、急行による寡兵もあって、城はわずか半日で陥落した。
しかも、居城の久留米城を脱した秀包の妻と嫡男『菊丸』は、いずれの所在も不明であった。
こうした心労が積み重なり、秀包の病状は急速に悪化していた。
先ほど面会する前に、秀包を診ている医者の話を聞いたところ、今年の春を迎えられるかどうかも怪しいということだった。
「何を弱気な……。義兄上はここで果報をお待ちください。
久留米城は必ず取り戻します。奥方と菊丸も、見つけてみせます」
俺としては複雑な心境だった。
小早川秀包もまた、法則『俺の顔見知りは脇役』に当てはまっていた。
小早川秀包は、仏壇の遺影で何度も見た伯父だ。
詳しい話は知らないが、やはり伯父も病に倒れ、三十前半の若さで亡くなっていた。
ここまでくると、無理に当てはめようとしなくてもいいと思えてしまう。
まるで、俺が戦国時代に来たせいで、こうなってしまったのかと考えてしまう。
「た、頼む……。き、菊丸を頼む。お、お願いだ……。」
小早川秀包は涙ぐみ、布団の中から震える右手を重そうに俺へ差し伸べてきた。
それを両手でしっかり握り、俺は目を細め、短く息を吐いた。
「少し二人で話がしたい。席を外してくれ」
そして、小早川秀包の目を真っ直ぐ見つめつつ、廊下に控える家臣たちへ静かに命じた。
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「病は気からと申します。
兄上が少しでも楽になられるよう、薬を差し上げます」
背後の障子戸が閉まるのを確認し、俺は微笑みながら口を開いた。
小早川秀包の目が一瞬こちらを覗いたが、すぐに伏せられ、その視線は布団に沈んだ。
「……無駄だ。自分の体は、自分がよく分かっている」
「まあ、騙されたと思って」
「いいだろう……。」
「俺は武運に恵まれ、関ヶ原で名を挙げました」
そして、再びこちらを見上げた。
その目は困惑に揺れている。
薬をやると言いながら、いきなり俺は自慢話を始めたのだから、無理もない。
「……ああ、お前は小早川の誇りだ」
それでも、小早川秀包は眩しそうに目を細め、小さく頷いて、静かに息をついた。
その胸の内には、どんな思いがあるのだろうか。
小早川秀包は、小早川秀秋の義兄にあたるが、父である小早川隆景の実子ではない。
すなわち、養子である。
隆景はその才を見込み、秀包を小早川家の跡継ぎとして迎え入れた。
ところが、十余年ののち、上方で政変が起こる。
それに伴い、豊臣秀吉が筋を曲げてまで、小早川秀秋を小早川家の跡継ぎと定めた。
「おかげで、美濃国を貰い受けました」
「聞いている。大領だな」
秀包と秀秋の二人は、決して不仲ではなかったらしい。
だが、天下人に人生を翻弄された秀包は、誰にも語れぬ複雑な思いが渦巻いていたことだろう。
ましてや、秀秋は成長するにつれ、その評判をますます落としていった。
家中では、確実に秀秋より秀包を推す声があったはずだ。
それを、稲葉のおっさんや平岡のおっさんに聞いてみると、否定はしたものの、目が泳いでいた。間違いないだろう。
もしかしたら、いつかは、と淡い期待を抱いていたのかもしれない。
「しかし、飛び地です。こことは距離が離れすぎています」
「大丈夫だ。お前なら出来る」
しかし、関ヶ原の戦いで、俺はもはや覆せぬほどの名を挙げた。
恐らく、秀包は、ひそかに焦りを募らせたに違いない。
だから、俺が黒田孝高の九州での暗躍の可能性を示すと、秀包はためらうことなく九州急行を承諾した。
関ヶ原の戦いには間に合わなかったが、故郷で武功を重ね、少しでも巻き返しを図ろうとする思いがあったのではなかろうか。
「十年なら、平気でしょう。
でも、風土も違えば、食べるものも違う。
二十年、三十年が経ったときに、必ず不都合が生じ、やがて埋められなくなるでしょう」
「むぅ……。」
だが、運命は非情だった。
一戦を交えることなく、病に倒れ伏してしまった。
そして、立花山城を仰ぎ見る城下の屋敷に幽閉され、立ち上がることもままならなくなった。
岐阜城で会ったときとは打って変わり、やる気に満ち溢れていたあの頃の面影は消え、今では何もかも諦め、達観している。
傲慢かもしれないが、俺はただ、不憫で仕方がなかった。
もはや死を避けられぬ運命なら、せめて希望を胸に、旅立ってほしかった。
「だから、分家を作るつもりです」
「な、何?」
その希望を告げると、小早川秀包は目を見開いた。
起き上がることすら辛いはずなのに、上半身を起こそうとして、すぐに布団へと崩れ落ちた。
「言うなれば、九州小早川と美濃小早川ですね」
「い、いや、待て……。」
俺は小早川秀包の枕元に回り、弱々しい肩に手を添え、そっと上半身を起こす。
間違いなく、医者に見つかれば怒鳴られるだろう。
しかし、今は二人だけの秘密であっても、ここは大事な儀式の場だ。
寝ていては格好がつかず、身体は辛かろうとも、秀包もそれを望んではいないだろう。
俺は元の席に戻り、正座して身を正した。
「当然、九州小早川が本家。
そして、その当主は……。菊丸です」
「なっ!?」
小早川秀包は息を呑んだ。
驚きのあまり口を大きく開き、顎をわなわなと震わせる。
小早川秀秋は、秀包からあらゆるものを奪った。
けれど、考えてみれば俺も秀秋からすべてを奪っている。
奥さんも、家臣も、そして未来までも。
だからこそ、飛び地として『美濃』を提案されたとき、迷わず手を伸ばした。
新しい『何か』が、どうしても欲しかったのだ。
秀包の目に生気が灯るのを見つけ、俺は思わず微笑みを零した。
「本来なら、義兄上が小早川を継いでいたのですから、これが正しい道なのです」
「……い、いいのか?」
小早川秀包はたちまち涙ぐみ、ひとすじの涙が右頬を滑り落ちた。
体を小刻みに震わせ、両手を震えさせながら這い寄り、かろうじて力の残る手で俺の肩を握った。
「ただ、世はまた乱れ、九州もまた乱れた。
これでは危うい。菊丸が当主になるのは、せめて九州の平穏が盤石になってからです」
俺は手を貸したい気持ちがあった。
だが、あえてその手を差し伸べずに見守ることにした。
「す、すまない! ……す、すまない!
お、俺はお前をずっと誤解していた! す、すまない!」
小早川秀包が力を振り絞り、俺の肩に顎を乗せて、背中に手を回した。
「はっはっはっ! 謝るのはこっちの方ですよ。
家康を討ち取るためとはいえ、ずっと皆を欺いていたのですからね」
それを受け、俺もそっと両手を背中に回し、涙に声を震わせる秀包の力ない体を支えた。




