第41話 身分を越えて
「ほーーー……。豚を飼っているのか」
唐津街道から外れ、争いとは無縁そうなのどかな村。
畔に立てられた粗末な柵の中を、たくさんの豚がのんびり歩き回り、ブイブイと元気に鳴いている。
多分、稲刈りの後から田植えまでの間、豚を放し飼いにすることで、土地を肥やす知恵だ。
豚たちの糞と、歩き回るたびにかき混ぜられる土によって、自然と田畑に養分が行き渡るのだろう。
「はい。上方ではあまり食されないと聞きますが、本当でございますか?」
「ああ、肉といったら鶏だな。
たまにイノシシも口にするが、専門に獲っているって話は聞かないな」
農業に関して、俺は素人どころかほとんど無知だ。
小学校のとき、夏休みの宿題で朝顔を育てたくらいと、課外授業でじゃがいもを植えた経験がある程度だ。
今、目の前の光景を見て、ようやく『なるほど』と思った。
どうやら、この分野で未来の知識『チート』を活かすのは無理らしい。
「豚はいいですぞ~? 臭みは少なく、甘みがしっかりしていますからね!」
「はっはっ! 売り込みか? 余裕があるなら買うぞ?」
例えば、備中鍬、千歯こき、唐箕
戦国時代でも作れそうな農具チート三種の神器でさえ、その名詞をテスト勉強で暗記しただけに過ぎない。
日本史の教科書で見たはずの写真も、頭の中ではぼんやりとしか思い出せない。
備中鍬なら『こんな感じ?』で、なんとか作れそうだ。
千歯こきも単純な見た目だけに、試行錯誤すれば作れないことはない。
唐箕に至っては、もうちんぷんかんぷんだ。
教科書が教えてくれたのは外見で、大事な内部構造はまったく分からない。
「おおっ! いかほどご利用でしょうか?」
「そうだな……。この村のみんなに振る舞えるくらいはあるか?」
それに、非常に重要な注意点がある。
俺が作れる程度の物なら、結局のところ、真似さえすれば誰にでも作れるということだ。
農民の暮らしが楽になる。
それは本来、誰もが願う喜ばしいことであり、世が豊かになる力でもある。
だが、それは今の戦国の世では、むしろ歓迎できない。
石高の上昇は、人々の心に余裕をもたらす。
しかし、その余裕こそが、やがて野心へと姿を変える種となる。
それが暴発して、なし崩しに大きなうねりになってしまっては困る。
「なんと、なんとっ!? 本当に、よろしいのですか?」
「家臣が錦を飾るんだ。それくらいしてやらないとな」
徳川との決戦は、いずれ必ず来る。
だからこそ、その時は、俺たちの主導で起こさなければならない。
それゆえ、今知った冬季の豚の放牧も、ひとまず心のメモに留めておく。
世に出すのは、豊臣家の君臨が揺るぎなくなり、太平の世が訪れてからでも遅くはない。
「……まだ信じられません」
ふと、村を案内してくれていた村長が立ち止まり、顔を曇らせた。
「あの虎丸が……。いえ、城井様が本当にお侍になるとは……。」
俺は思わず立ち止まり、眉を寄せた。
大望を抱き、村を飛び出した若者が立身出世を果たしたのだ。
それは村の誇りであり、本来なら喜ばしいことのはずだ。
「おや?」
その理由を尋ねようとしたとき、子どもたちが馬と戯れているのを目にした。
俺をこの村の入口まで案内しておきながら、一人で勝手にどこかへ行ってしまった不忠者の馬だ。
「おてる、どうしてだ!
無事に戻れたら、祝言を挙げるって約束したじゃないか!」
当然、不忠者はすぐ近くにいる。
俺がキョロキョロと辺りを見回していると、その不忠者の悲痛な叫びが耳に飛び込んできた。
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「お侍様、冗談はお止しください……。
そんな約束、交わした覚えはございません」
城井朝末より二つか三つほど年上だろうか。
村人たちより少しだけ身なりのよい、少女から女性へと変わりゆく年頃の娘が、地べたにひざまずいて頭を下げていた。
「な、何を言っているんだ? む、村を発つ前日の夜、俺たちは……」
「あれは一夜の夢に過ぎません。どうかお忘れください。
戦に赴く貴方様を男にする栄誉を、私が父より任されただけのことにございます」
「嘘だ!」
平伏を捧げられた城井朝末の顔は、青ざめていた。
ゆっくりと首を左右に振り、娘の謝罪を受け入れようとはしない。
「……嘘ではございません」
「なら、なぜ泣いている!」
「そ、それは……。」
解説を求め、隣に目をやると、村長の顔は沈痛に歪み、視線を地面に落としていた。
その瞬間、俺は全てを察した。
娘は村長の子で、城井朝末とは恋仲だ。
村を発つその日、二人は固く契りを交わし、無事に帰ってきたら夫婦になると誓い合っていた。
しかし、帰郷した城井朝末は、想像を超える出世を遂げていた。
娘は身分の隔たりを痛感し、そっと身を引こうとしているに違いない。
正直、俺はこういう話に弱い。
胸がじんと熱くなり、瞼を閉じて涙をこらえた。
「いい話だなー……。」
「あっ!?」
俺の声に、城井朝末がギョッと目を見開いた。
どうやら、村の入口に置き去りにした俺の存在を、今になってやっと思い出したようだ。
俺は目尻を人差し指で拭い、城井朝末を冷ややかに睨んだ。
「お前ね……。嬉しいのは分かるけど、主君を置いてゆくってどういうこと?」
「も、申し訳ございません!」
「たまたま村長さんが近くにいたからいいけど……。
うちの軍勢がこの辺りを進んでるって知られてるんだぞ? 俺、完全に不審者じゃん?」
「ご、ごもっともです! ま、真に申し訳ございません!」
城井朝末は慌てて膝をつき、頭を地面に押し付けて土下座した。
この騒ぎを聞きつけ、村人たちが次々と集まってきている。
城井朝末の実家と思しきあばら家の玄関では、母親と思しき女性が両手で口を覆い、おろおろと立ち尽くしていた。
まずいことになった。
故郷に錦を飾るはずの城井朝末の株を、俺が地に落としてしまっている。
「でも、話は分かった!
俺が許す! お前たち、祝言をあげろ!」
だが、解決の糸口は目の前にあった。
俺が雰囲気を一新するため、拍手を鳴らすと、城井朝末と娘は顔を跳ね上げた。
「お、お待ちください! お、お殿様!
わ、私の娘は農民です! き、城井様とはとても釣り合いが取れませぬ!」
真っ先に慌てたのは、村長だった。
手を振りつつ、顔を俺と城井朝末、少女の方へ何度も忙しなく向ける。
なるほど、事情をさらに察した。
村長は、城井朝末のお家再興という大望を知っていた。
しかし、そんなものは夢物語に過ぎず、広い世界を経験すれば、きっと村に落ち着いてくれるだろうと考えていた。
そのため、本来なら徴兵で弾かれる年齢である城井朝末の年齢を偽り、危険な橋を渡って大阪に送り出したのだ。
城井朝末が無事に帰郷すれば、二人が夫婦になることも了承していた。
ただし、万が一、城井朝末が大望を成し遂げた暁には、娘に潔く身を引くよう諭していたに違いない。
「んーー……。だったら、娘さんをどこかの武家の養女にする?」
「よ、よろしいのですかっ!?」
だが、平成生まれの令和に生きていた俺にとって、そんな問題はナンセンスだ。
俺が解決策を口にすると、即座に反応したのは村長ではなく、城井朝末の母親だった。
慌てて俺の前に駆け出て、膝をついた。
城井朝末と娘は恋仲で、実は両家の親もすでに認めている。
たぶん、幼い頃から二人は仲が良かったのだろう。
この騒ぎに驚き、戸惑う村人たちの様子からも、二人がいずれ夫婦になるものと、誰もが当然のように思っていたことが伝わってくる。
これで二人の仲を引き裂こうものなら、まるで馬に蹴られるような所業だ。
ふと愛馬のオグリに目を向けると、城井朝末の馬と並び、田んぼの畔の草をのんびりとむしゃむしゃ食べていた。
「いいんじゃね? 武家なら養子縁組は当たり前だしさ。
俺自身、小早川の前は羽柴で、その前は木下だよ?
生まれを気にしてるなら、関白になった秀吉様はどうする? 元は農民だぞ?」
「そうだ! 三成に任せよう!
たまには俺があいつに無茶振りしても、かまわないだろう!
きっと、いい養子先を見つけてくれる。……うん、名案だ!」
俺は心がほっこり温まるのを感じながら、説得力抜群の実例を示した。
ついでに、いつもやり込められている三成への仕返しも思いつき、笑顔で頷いた。
「おてるっ!」
城井朝末は土下座から勢いよく立ち上がった。
すぐに娘も両脇を抱えて立たせると、そのままきつく抱きしめた。
「……虎丸ぅっ!」
一呼吸置き、娘はまだ力の抜けた膝をゆっくりと伸ばし、城井朝末の背中に両腕を回して、きつく抱きしめた。
二人は頬をすり合わせ、泣いていた。
村長も城井朝末の母親も、涙を零している。
村人たちが歓声をあげる中、酒樽を両脇に抱えた馬が現れた。
「おっ!? 何が何やらだが、これで一件落着だな!」
「ああ! 要するに、宴ってことだ!」
「殿様、安心しろ! 酒なら、俺たちが持ってきたぞ!」
「待て! これだけじゃ、足りねえだろ! もっと持ってくるぞ!」
いつもの顔なじみ、小早川家の足軽たちだった。
なぜ、俺がここにいると分かったのだろう。
総大将の俺が軍勢から離れたら騒ぎになるため、城井朝末と二人でこっそり抜け出してきたのに。
「お前らって、ほんと酒の気配に敏感だよな……。」
俺は思わず顔を引きつらせた。
憎めないやつらだが、俺に対する敬意が薄くて困る。
どうせ、俺のことをタダ酒飲ませるマシーンくらいにしか思っていないのだろう。
それでも、こいつらが貴重なムードメーカーであることも事実だ。
「よし! こうなったら、この村にある酒は全部出せ!
朝末の晴れの舞台だ! 俺が残らず買い取ってやる!」
俺が両拳を勢いよく掲げて吠えると、村はたちまち大騒ぎになった。
村人たちは慌てて家へ駆け戻り、豚たちは驚いて放牧地を右往左往しながら走り回った。




