第8話 名前も知らない君に、届いたかな
最後の曲が終わった瞬間、一度だけ目を閉じた。
自分の声の残響が、耳の奥に溶けていく。
ピアノの最後の和音が、まだ指先に残っている気がした。
会場の空気が、一瞬だけ完全に静止する。
そして、嵐のような拍手が来た。
黄色いペンライトが激しく波打つ。
歓声が鼓膜を揺らす。
でもその轟音の中で、僕の視線はまだ、あの場所に向いていた。
黄色いワンピースの彼女。
ピアノを弾きながらあの歌詞を口にするたびに、どうしても目が離せなかった。
曲が進むにつれて、彼女の表情が少しずつ変わっていくのがわかった。
驚きから、痛みへ、そして何か深いものを確かめるような静かな眼差しへ。
まるで、この歌を知っているみたいだった。
椅子からゆっくりと立ち上がり、深くお辞儀をする。
顔を上げた瞬間、自然と視線がそこへ向かう。
数千人がいる会場で、彼女の目と、真っ直ぐに重なる。
心の中で、何かが動いた。
引っ張られるような、懐かしいような。
胸の奥のずっと名前のなかった感覚に、急に輪郭が生まれるような。
次の動作に移れなかった。
スタッフに怒られるとわかっていても、動けなかった。
彼女の目が、揺れていた。
泣いているのか、笑っているのか、その両方なのか。
ペンライトの黄色い光に照らされた頬に、何かが光っているのが見えた。
君、この歌知ってた?
夢の中で、会ったことある?
数秒間、ただ見つめ合っていた。
会場の喧騒が、遠くなる。
黄色い光の海が、背景に溶けていく。
僕は微笑む。
彼女が、息を飲むのがわかった。
次の曲のイントロが流れ始めて、僕はステージの中央へ向かった。
ライブが終盤に差し掛かった頃、マイクを持ったまま、しばらく客席を眺めた。
最後の挨拶。
毎回、言葉を決めておくのだけど、今日はそれが全部どこかへ飛んでいってしまっていた。
「……今日、こうして皆さんに会えて、本当に幸せです」
そこまではいつも通り。
でも次の言葉が出てきた時、自分でも少し驚いた。
「あの……。実は僕、自分でも『アイドルに向いてない』って思うんです」
客席から、戸惑いの気配が漏れる。
ペンライトが揺れている。
「もともと引っ込み思案で、人前に立つのも目立つのも、今でも苦手で。
本当は静かな場所で本を読んだり、ひっそり何かを書いてたりする方が、僕らしいのかもしれない」
本当のことだ。
子供の頃から、大勢の中にいると自分が遠くへ行ってしまう感覚があった。
賑やかな場所より、一人で窓の外を眺めている方がずっと楽だった。
なのになぜアイドルになったのか。
うまく説明できないのだけど、ずっと、誰かを泣かせてしまった気がしていた。
いつのことかわからない。
どこでのことかもわからない。
でも物心ついた頃から、胸の奥に小さな棘みたいに刺さっていた。
自分のせいで、誰かが泣いた。
自分が傍にいられなくて、誰かが一人で泣いていた。
笑顔にしたい。
その誰かのことを、今度こそ。
「でも……。それでも、誰かを笑顔にしたくて」
マイクを持つ手に、少しだけ力が入る。
客席が静かに聞いていた。
戸惑いじゃなく、何かを受け取ろうとするような、真剣な静けさ。
「僕の歌や言葉で、一人でもいいから誰かの力になれたら。……そう思ったから、今ここにいます」
客席をゆっくりと見渡す。
——また見つけてしまった。
彼女が、まだそこにいた。
もう泣くのを堪えようともしていない。
ただまっすぐに、こちらを見ている。
その頬を伝う光を見た瞬間、胸の棘が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
——ありがとう。
名前も知らない、どこの誰かも知らない。
でも今夜この歌をあんな顔で聞いてくれた人に、それだけは伝えたかった。
「僕を、こうして見つけてくれて、支えてくれて。……本当にありがとうございます」
深くお辞儀をする。
温かい拍手が来た。
顔を上げた時、もう一度だけ彼女を見る。
アイドルとしての笑顔じゃない、もっと小さな——自分たちだけにわかるような笑顔を、向けた。
ただ、届いてほしかった。
袖に引っ込むと、富田さんがタオルを投げてきた。
「どうだった」
「……よかったです」
「泣きそうな顔してる」
「してないです」
「してる」
それ以上踏み込んでこない。
富田さんらしい。
楽屋に戻って椅子に座る。
鏡の中の自分は、確かに少し泣きそうな顔をしていた。富田さんの言う通りだった。
スマホを手に取ると、SNSの通知が溢れていた。
コンサートの感想が次々と流れてくる。
この中に、あの人の言葉があるだろうか。
探す方法はない。
名前も顔も、何も知らないのだから。
でも。
夢の中でずっと探していた手の感触。
細くて、少し冷たくて、でも握り返してくれた手。今夜あの人の顔を見た時に感じたあの重さが、もしかしたらそれと同じものだったのかもしれない。
ずっと胸に刺さっていた棘。
誰かを泣かせてしまったという、根拠のない罪悪感。
あの人の涙を見た時、それが少しだけやわらいだ気がした。
きっと、届いたから泣いてくれたんだ——と。
君に、届いた?
もう会場にはいないであろう彼女に向かって、心の中で呼びかける。
夢の中の誰かに向けて書いたあの言葉が、ちゃんと君に届いたなら、それでいい。
それだけで今夜のことは全部、報われる気がした。
またいつか、会えるだろうか。
そう思いながら、タオルで顔を覆う。
富田さんには、絶対に見せられない顔で、しばらくそのままでいた。




