第7話 初めてのソロコンサートで、また彼女を見つけてしまった
自分の声だけで、どこまで届けられるのか。
自分の言葉だけで、誰かの胸を打てるのか。
怖さと好奇心が半々のまま、ソロ活動を始めて八ヶ月になる。
今日は、その集大成とも言える日だ。
初めてのソロコンサート、『Star Dust Memory』。
楽屋に入ったのは、開場三時間前だった。
自分の名前が貼られた扉を開けると——誰もいなかった。
グループの時は、楽屋に入れば必ず誰かがいた。
誰かが喋って、誰かが笑って、その騒がしさの中で自然と肩の力が抜けた。
今日はそれがない。
広い部屋で、鏡だけが静かに自分を映している。
衣装ラックには、今日のために用意された衣装が掛けられていた。
綺麗めな黄色のジャケットに、白を基調としたインナー。
細身のパンツを合わせた、爽やかで少し大人っぽいスタイル。
黄色は、Lunastellarでの僕のメンバーカラーでもある。
グループを離れて、ソロになった今でも。
その色だけは、変わらず僕のそばにある。
椅子を引いて座ると、富田さんが横からお茶を置いた。
「緊張してんの?」
「……してますよ、やっぱり」
「顔に出てる」
「そうですか」
自分ではよくわからない。
リハーサル中、モニターから返ってくる自分の声が、どこか遠い他人のもののように聞こえた。
うまく歌えていたのか、上滑りしていたのか。
鏡の中の自分と、しばらく目が合う。
今日はちゃんと届けられるかな。
あの曲を歌う時のことを考えると怖い。
去年の秋、夜中の三時に目が覚めて、手のひらに誰かの温もりを感じながら書き留めた言葉たち。
プロデューサーの宇野さんには「アイドルが歌う歌詞じゃない」と言われた。
それでも外せなかった。
「陽葵、そろそろメイク」
「はい」
鏡の前に座り直す。
メイクさんの手が慣れた動作で顔に触れ始める。
アイドルとしての顔が、少しずつ作られていく。
今夜あの曲を歌う時、どんな顔をすればいいか、まだわからない。
ただ届けばいい、誰か一人にでも。
できれば——あの視線の先にいた人に。
照明が落ちる直前の、あの数秒間が好きだ。
会場全体が息を飲んで、何万もの心拍が一つのリズムに揃っていくような感覚。
暗闇の中でペンライトだけが揺れて、自分を待ってくれている人たちの顔は見えなくても、その熱だけが確かに届いてくる。
今夜もそうだ。
深呼吸して、スポットライトの縁に足を踏み入れた瞬間、黄色い光の海が目に飛び込んでくる。
黄色のジャケットが、ステージの照明を受けて鮮やかに浮かび上がった。
衣装の黄色と、客席を埋め尽くす黄色いペンライト。
まるでステージと客席が、一つの色で繋がっているようだった。
……みんな、来てくれたんだ。
「みんな、今日は来てくれてありがとう。……会いたかったよ」
マイクを通して出た声は、思ったより柔らかかった。
客席のあちこちから、嗚咽をこらえるような気配がする。
ソロ公演はいい。グループの時とは違う、もっと静かで濃い繋がりがある。
歌いながら、客席を丁寧に見渡す。
一人ひとりの顔を、ちゃんと受け取りたい。
その時だった。
黄色いワンピースの、女性。
それだけなら珍しくもない。今日の会場は黄色で溢れている。
でも彼女が目に入った瞬間、マイクを握る指に無意識に力が入った。
(——あの人だ)
中盤、僕はピアノの前に座った。
この曲だけは、いつも少し怖い。
去年の秋の話だ。
夜中の三時頃に突然目が覚めて、眠れなくて、夢の残像だけが手のひらに残っていた。
縁側に差し込む夏の光。
誰かの手の感触。
なぜか泣いていた。
悲しい夢だったのか嬉しい夢だったのかさえ、わからなかった。
ただ、あの感触だけが残っていた。
細くて、少し冷たくて、でも握り返してくれた手。
メモアプリを開いて、浮かんでくる言葉をただ書き留めた。
「誰かを泣かせてしまった」
「悲しませてしまった」
「もう一度あなたに会いたくて」
「きっと僕はまた生まれてきた」
書き終えてから、しばらく画面を見つめた。
自分で書いたはずなのに、自分のものじゃないような気がした。
でも嘘じゃない。この感情には確かに覚えがある。どこかで、本当に誰かに対して、こう思ったことがある。
なのに、それが誰なのか、思い出せない。
鍵盤に指を置いた瞬間、ピアノの冷たさが掌に広がった。客席が静まり返っていた。
「次の曲は……僕が初めて作詞した歌です」
言いながら客席に目を向けて——また見つけてしまった。
彼女を。
さっきとは違う顔。
驚きとも痛みとも取れる表情。
まるでこの曲を、既に知っているかのような。
歌い始める。
「誰かを泣かせてしまった 悲しませてしまった 月明かり」
夢の中の縁側。知らない女性の手。
夢の中では、その人の名前を知っていた気がする。呼びかけた気がする。
でも今、どんなに集中しても、その音が口から出てこない。
「もう一度あなたに会いたくて きっと僕はまた生まれてきた」
彼女が、唇を薄く開く。
ペンライトを握る手が、止まっているように見えた。
——ねえ、聞こえてる?
——この曲、届いてる?
君のことを書いたわけじゃない。
君が誰かも、僕にはわからない。
でも夢の中の誰かのことを書いた。
手のひらに温もりを感じながら書き留めた言葉たちを。
それが今夜、君に届いているような気がしてならなかった。
ピアノの最後の音が、会場の天井に溶けていく。
しばらく、誰も声を出さなかった。
それから、嵐のような拍手が来た。
深く息を吸って、客席に向かって微笑む。
いつもの、穏やかな笑顔を。
でも視線はまだ、少しだけあの方向を探していた。
黄色い光の海の中で、彼女はまだそこにいた。
頬に光るものを拭おうともせず、ただまっすぐにこちらを見ている。
——また会えたね。
次の曲のイントロが始まる。
僕はピアノから立ち上がり、ステージの中央へ歩いていく。
君のことを、ずっと探していた気がする。
そう思いながら、僕はまた歌い始めた。




