第6話 わらび餅一粒で、胸に小さな灯がともった
机の上のスマホが震えた。
富田さんからのメッセージ。
『今日のインタビュー、反響良さそうだ』。
誰かの心に届くのは嬉しい。それが僕の存在意義だ。なのに胸元を押さえると、そこだけぽっかりと空洞になっているみたいだった。
「……僕は、いったい誰なんだろう」
窓の外に東京の夜景が広がっている。雨が、降り始める。
指先が、冷えた。
雨上がりの楽屋。
窓の外で紫陽花が青と紫の火を灯している。
低い雲の隙間から差し込む白い光が、床にぼんやりとした輪郭を描いていた。
「陽葵、差し入れだ。食べるか?」
富田さんが透明な容器を机に置いた。
黒蜜ときな粉をたっぷり纏った、大粒のわらび餅。容器の内側に水滴が浮いているのは、外の蒸し暑さのせいだろう。
「……ありがとうございます」
黒のTシャツに淡いデニムという私服のまま、椅子の背もたれに体を預けてそれを見つめる。
仕事前の、なんてことのない格好だ。でも鏡の中の自分は、なんとなく今の景色から浮いているような気がした。
最近ずっとそうだ。朝目が覚めるたびに、一瞬どこにいるのかわからなくなる。
蓋を開けると、香ばしいきな粉の匂いが鼻をくすぐった。一粒、口に運ぶ。
ひんやりとした滑らかな食感が舌の上で踊って、深い甘みを残して儚く溶けた。
……懐かしい。
不意に、鼻の奥がツンとした。
(食べたことがある。絶対に、ある)
「陽葵? どうした」
富田さんが覗き込んでくる。
「なんか……すごく懐かしくて、優しい味がして」
「わらび餅に懐かしくなるなんて、今どき珍しいな」
「そうですね」
笑って誤魔化す。
うまく説明できない。夢の話をしても、と思う。
無意識にスマホを手に取って、カメラを起動した。白い机の上のわらび餅と、デニムを穿いた自分の脚が少し映り込むように、シャッターを切る。
こういう何でもない瞬間の写真だけは、自分で撮りたくなる。
『仕事先の楽屋で、差し入れのわらび餅をいただきました。一口食べた時、なんだか、すごく懐かしくて、優しい味がしました。最近、こういう和菓子がすごく好きです。』
投稿ボタンを押すと、すぐに「いいね」の通知が跳ね上がる。
コメント欄に文字が並び始めた。
「わらび餅大好き」
「陽葵くんと同じもの食べたい」
「優しい味って表現が素敵」
その無数の反応の中に、彼女がいるような気がした。
今この瞬間、僕が感じたこの懐かしさを、世界のどこかで彼女も同じように感じてくれていたら。
(……我ながら、だいぶ重症だな)
「本当、不思議だな」
独り言が冷房の効いた楽屋の静寂に溶けていく。
このわらび餅の甘さが、見知らぬ誰かと僕を、ほんの一ミリだけ近づけてくれる。
そんな気がするだけで、胸の奥に小さな灯がともった。
「雨宮さん、準備お願いします!」
「はい」と短く答えて立ち上がる。
最後の一粒を名残惜しく飲み込んだ。
喉元を通り過ぎるかすかな甘み。それさえも、もうすぐ消えてしまう。
窓の外の紫陽花が、雨の滴を纏ってキラキラと輝いていた。
梅雨の重たい風が、今日は不思議と心地よかった。雨の匂いがして、縁側の夢を、もう少しだけ思い出せる気がした。
もし、君も同じ味を食べているなら。
そう思うだけで、これから始まる撮影も、眩しいライトも、全部優しく受け入れられる気がした。
どこかで今頃、彼女もわらび餅を食べているだろうか。きな粉の匂いに少し目を細めながら、言葉にできない懐かしさに、一瞬だけ胸を押さえたりするだろうか。
そうだったらいいな。
僕は袖を少し捲り上げて、いつものように穏やかな笑顔を作り、鏡の前を離れた。
グループでデビューして、五年が経つ。
雨宮陽葵という名前は、今では単体でポスターに載る。
去年の秋、事務所からソロ活動の打診があった時、正直戸惑いのほうが大きかった。
グループの中の自分しか知らなかったから。
五人でステージに立つことが当たり前で、隣に誰もいない状態で歌うことを、まだ身体が覚えていなかった。
それでも、やってみたかった。




