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アイドルに転生した僕は数万人の客席にいる前世の妻を見つけてしまった〜どれだけ芸能界の壁に阻まれても君を愛してる〜  作者: ひとひら


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10/19

第9話 「アイドルに向いてない」が切り取られて拡散された夜


 ライブから一週間が経った。


七月に入って、梅雨が本格的になった。

朝から晩まで降り続ける日もあれば、昼過ぎに空が割れて息のできないような熱気が立ち上る日もある。

どちらにしても外に出るたびに空気が肌に張り付いてくる。

うんざりするくらい、湿っている。


あの夜のことを、まだ時々思い返す。


黄色い光の海。ピアノの冷たい感触。あの人の顔。


日常に戻るにつれてライブの記憶は薄れていくのに、あの眼差しだけが妙に鮮明なまま残っていた。電車を待っている時とか、シャワーを浴びている時とか、誰かと話している合間の、ほんの一瞬の隙間に。


――また会えるか、わからない。


そう思うたびに、胸の奥が静かに重くなる。

それでも後悔はなかった。

あの夜、届けたいものを届けられた気がしていたから。



七月最初の週、グループの定期収録があった。

スタジオに入ると、蓮がすぐに手を上げた。

いつも一番早く来ている几帳面なやつだ。


「お、陽葵。ソロどうだった?」


「よかったよ。緊張したけど」


「顔に出ないよな、お前ほんとに」


そこへ颯太が両手にコーヒーを抱えて入ってきた。

そのうちの一つを蓮に押しつける。


「俺だったら足震えて倒れてる」


「颯太はそもそもソロ嫌いだもんね」


「嫌いじゃないけど一人は寂しいだろ。お前よくやれるな」


そう言いながらも、どこか感心したような顔をしていた。

口は悪いけど憎めない。

グループで一番騒がしくて、一番人懐っこいやつだ。


「ピアノの曲、よかった」


と蓮が続ける。


「歌詞、自分で書いたんだって? どこから出てきたの、あんな歌詞」


夢の中から、とは言えない。


「ふと浮かんだ。夜中に目が覚めた時に」


「天才じゃん」と颯太が軽く言う。


「俺なんか夜中に目覚めたらトイレ行くだけだわ」


「それはそれで大事だよ」


「大事かよ」


そこへ遅れて樹が入ってきた。


「お前ら朝からうるせえな」


低い声でそう言いながら椅子に座る。

テーブルの端の台本が落ちそうになっているのを見て、無言でそっと位置を直した。


「樹くん、今日機嫌悪い?」


後ろからひょこっと顔を出した湊が覗き込む。


「普通」


「それ機嫌悪い時の”普通”じゃん」


「うるせえ」


言いながらも樹は、湊が飲もうとしていた冷めたコーヒーに気づいて「腹壊すぞ」と新しいものを押しつけていた。

怖そうに見えるのに、細かいところをちゃんと見ている。グループで一番兄貴みたいな人だ。


「樹くんってほんと優しいよね」


「……どこが」


「全部」


湊はこういうのがうまい。

ふわふわして見えるのに、場の温度が下がりそうになると、何気ない一言でさらっと戻してしまう。


こういう時間が、好きだった。

一人でステージに立つ緊張感とは違う、肩の力が自然と抜けていく感じ。

ソロをやってから、改めてそう思う。


収録が始まると、いつもの空気が出来上がっていった。

颯太が台本にない一言を挟んで笑いを取り、蓮が「お前自由すぎ」と呆れながら話を戻す。

湊が「でもそういうとこ人気あるよね」とさらりと繋いで、スタッフまで笑い出す。

樹は「ほんと仕事中だぞ」と言いながら、少しだけ口元が笑っていた。


誰かが黙れば誰かが喋る。

少し空気が沈みそうになると、自然に誰かが引き上げる。

この空気を、ずっと失いたくない。



収録終わり、富田さんの車で帰る道すがら、雨が降り始めた。

信号待ちで車が止まった時、富田さんが言った。


「ソロ、手応えあった?」


「ありました」


「そうか」


短い返事。

富田さんはこういう人だ。

あれこれ聞かない。でも必要な時には必ずそこにいる。

マネージャーというより、もう少し遠くて、でももう少し近い、うまく名前のつけられない距離感で。


「……ライブ、見てましたか」


「最後の挨拶のあたりだけ。袖から」


「あの話、変でしたかね。アイドルに向いてないって言ったやつ」


富田さんはしばらく黙った。

雨粒がフロントガラスを叩く音だけが、車内に響く。


「変じゃなかった」とやがて言った。


「お前らしかった」


少し間を置いて付け加える。


「お前らしいことが必ずしも正解とは限らないけどな」


アクセルをゆっくり踏みながら、


「まあ、届いてたんじゃないか。俺が見た感じ」


「そうだといいんですけど」


「お前が心配してもしょうがない。届く人には届く」


それだけ言って、また黙った。

その沈黙が、妙に温かかった。



夜、自宅に戻ってソファに沈み込む。

シャワーを浴びて、髪を乾かしながら、テレビをつけようとして、やめた。

音のない部屋の方が、今夜はいい気がした。



窓ガラスを伝う雨粒が、街灯の光を滲ませながら流れていく。


メモアプリを開く。

最近、夜に言葉を書き留める癖がついた。

日記でも詩でもない。

その日感じたことを、消えてしまう前に掬い取るような作業だ。


『ライブから一週間。今日は蓮と颯太と収録して、いつもみたいに笑った。夜は雨で、窓の向こうが滲んでいる。誰かに届いたなら、それでいい。届いた先に、あの人がいたなら、もっといい。』


書いてから、少し恥ずかしくなった。


(颯太に見られたら一生からかわれる)


スマホを伏せて、目を閉じる。


窓の外の雨音が低く一定のリズムで続いている。

この音を聴いていると、夢の中の風鈴の音を思い出す。

全然違う音のはずなのに、どこか同じ場所から来ているような気がして、不思議だった。



それからも、穏やかな日々が続いた。

ラジオ収録、雑誌取材、SNSへの投稿。

梅雨の合間に晴れた日は空が洗われたように高く見えて、蝉の声が遠くから聞こえ始めていた。



もうすぐ梅雨が明ける。

そうしたら、本当の夏が来る。



ある夕方、事務所のロビーで颯太と鉢合わせた。

外はまた雨で、颯太は傘を持ってきていなかったらしく、入り口で空を見上げてぼんやりしていた。


「陽葵、傘ある?」


「一本しかないけど」


「じゃあいい。富田さんに送ってもらう」


「……図々しいね」


「そういうもんだろ」


笑ってから、颯太が何気なく言った。


「陽葵、なんか最近顔違う。なんか……地に足ついた感じ? ソロやってから変わった気がする。いい意味でな。お前が自分の場所見つけた感じ」


颯太がこういうことを言うのは珍しかった。

普段はもっとふざけたことしか言わない。


「ありがとう」と言ったら、颯太はすぐに「やば、俺いいこと言っちゃった」と照れて顔を逸らした。


それがおかしくて、思わず笑った。


入り口のガラス越しに、雨が静かに降り続けていた。

七月の雨は重たいけれど、誰かと並んで眺めていると、悪くない気がした。



炎上に気づいたのは、そのさらに数日後の夜のことだった。


梅雨明け間近の、蒸し暑い夜。


シャワーを浴びて、濡れた髪のままソファに座って、何気なくスマホを手に取った。


メモアプリを開こうとして——SNSの通知が異常に多いことに気づいた。

コンサートから一週間以上経っているのに、なぜこんなに。


何気なく開いて、数秒後に理解した。

ライブの挨拶の動画が、切り取られて拡散されていた。


『アイドルに向いてない』


その部分だけが、文脈ごと切り落とされて。


コメント欄には、見たくない言葉が並んでいた。


スマホを持つ手が、じわりと汗ばんだ。


窓の外で、蝉がまだ鳴いていた。




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