第9話 「アイドルに向いてない」が切り取られて拡散された夜
ライブから一週間が経った。
七月に入って、梅雨が本格的になった。
朝から晩まで降り続ける日もあれば、昼過ぎに空が割れて息のできないような熱気が立ち上る日もある。
どちらにしても外に出るたびに空気が肌に張り付いてくる。
うんざりするくらい、湿っている。
あの夜のことを、まだ時々思い返す。
黄色い光の海。ピアノの冷たい感触。あの人の顔。
日常に戻るにつれてライブの記憶は薄れていくのに、あの眼差しだけが妙に鮮明なまま残っていた。電車を待っている時とか、シャワーを浴びている時とか、誰かと話している合間の、ほんの一瞬の隙間に。
――また会えるか、わからない。
そう思うたびに、胸の奥が静かに重くなる。
それでも後悔はなかった。
あの夜、届けたいものを届けられた気がしていたから。
七月最初の週、グループの定期収録があった。
スタジオに入ると、蓮がすぐに手を上げた。
いつも一番早く来ている几帳面なやつだ。
「お、陽葵。ソロどうだった?」
「よかったよ。緊張したけど」
「顔に出ないよな、お前ほんとに」
そこへ颯太が両手にコーヒーを抱えて入ってきた。
そのうちの一つを蓮に押しつける。
「俺だったら足震えて倒れてる」
「颯太はそもそもソロ嫌いだもんね」
「嫌いじゃないけど一人は寂しいだろ。お前よくやれるな」
そう言いながらも、どこか感心したような顔をしていた。
口は悪いけど憎めない。
グループで一番騒がしくて、一番人懐っこいやつだ。
「ピアノの曲、よかった」
と蓮が続ける。
「歌詞、自分で書いたんだって? どこから出てきたの、あんな歌詞」
夢の中から、とは言えない。
「ふと浮かんだ。夜中に目が覚めた時に」
「天才じゃん」と颯太が軽く言う。
「俺なんか夜中に目覚めたらトイレ行くだけだわ」
「それはそれで大事だよ」
「大事かよ」
そこへ遅れて樹が入ってきた。
「お前ら朝からうるせえな」
低い声でそう言いながら椅子に座る。
テーブルの端の台本が落ちそうになっているのを見て、無言でそっと位置を直した。
「樹くん、今日機嫌悪い?」
後ろからひょこっと顔を出した湊が覗き込む。
「普通」
「それ機嫌悪い時の”普通”じゃん」
「うるせえ」
言いながらも樹は、湊が飲もうとしていた冷めたコーヒーに気づいて「腹壊すぞ」と新しいものを押しつけていた。
怖そうに見えるのに、細かいところをちゃんと見ている。グループで一番兄貴みたいな人だ。
「樹くんってほんと優しいよね」
「……どこが」
「全部」
湊はこういうのがうまい。
ふわふわして見えるのに、場の温度が下がりそうになると、何気ない一言でさらっと戻してしまう。
こういう時間が、好きだった。
一人でステージに立つ緊張感とは違う、肩の力が自然と抜けていく感じ。
ソロをやってから、改めてそう思う。
収録が始まると、いつもの空気が出来上がっていった。
颯太が台本にない一言を挟んで笑いを取り、蓮が「お前自由すぎ」と呆れながら話を戻す。
湊が「でもそういうとこ人気あるよね」とさらりと繋いで、スタッフまで笑い出す。
樹は「ほんと仕事中だぞ」と言いながら、少しだけ口元が笑っていた。
誰かが黙れば誰かが喋る。
少し空気が沈みそうになると、自然に誰かが引き上げる。
この空気を、ずっと失いたくない。
収録終わり、富田さんの車で帰る道すがら、雨が降り始めた。
信号待ちで車が止まった時、富田さんが言った。
「ソロ、手応えあった?」
「ありました」
「そうか」
短い返事。
富田さんはこういう人だ。
あれこれ聞かない。でも必要な時には必ずそこにいる。
マネージャーというより、もう少し遠くて、でももう少し近い、うまく名前のつけられない距離感で。
「……ライブ、見てましたか」
「最後の挨拶のあたりだけ。袖から」
「あの話、変でしたかね。アイドルに向いてないって言ったやつ」
富田さんはしばらく黙った。
雨粒がフロントガラスを叩く音だけが、車内に響く。
「変じゃなかった」とやがて言った。
「お前らしかった」
少し間を置いて付け加える。
「お前らしいことが必ずしも正解とは限らないけどな」
アクセルをゆっくり踏みながら、
「まあ、届いてたんじゃないか。俺が見た感じ」
「そうだといいんですけど」
「お前が心配してもしょうがない。届く人には届く」
それだけ言って、また黙った。
その沈黙が、妙に温かかった。
夜、自宅に戻ってソファに沈み込む。
シャワーを浴びて、髪を乾かしながら、テレビをつけようとして、やめた。
音のない部屋の方が、今夜はいい気がした。
窓ガラスを伝う雨粒が、街灯の光を滲ませながら流れていく。
メモアプリを開く。
最近、夜に言葉を書き留める癖がついた。
日記でも詩でもない。
その日感じたことを、消えてしまう前に掬い取るような作業だ。
『ライブから一週間。今日は蓮と颯太と収録して、いつもみたいに笑った。夜は雨で、窓の向こうが滲んでいる。誰かに届いたなら、それでいい。届いた先に、あの人がいたなら、もっといい。』
書いてから、少し恥ずかしくなった。
(颯太に見られたら一生からかわれる)
スマホを伏せて、目を閉じる。
窓の外の雨音が低く一定のリズムで続いている。
この音を聴いていると、夢の中の風鈴の音を思い出す。
全然違う音のはずなのに、どこか同じ場所から来ているような気がして、不思議だった。
それからも、穏やかな日々が続いた。
ラジオ収録、雑誌取材、SNSへの投稿。
梅雨の合間に晴れた日は空が洗われたように高く見えて、蝉の声が遠くから聞こえ始めていた。
もうすぐ梅雨が明ける。
そうしたら、本当の夏が来る。
ある夕方、事務所のロビーで颯太と鉢合わせた。
外はまた雨で、颯太は傘を持ってきていなかったらしく、入り口で空を見上げてぼんやりしていた。
「陽葵、傘ある?」
「一本しかないけど」
「じゃあいい。富田さんに送ってもらう」
「……図々しいね」
「そういうもんだろ」
笑ってから、颯太が何気なく言った。
「陽葵、なんか最近顔違う。なんか……地に足ついた感じ? ソロやってから変わった気がする。いい意味でな。お前が自分の場所見つけた感じ」
颯太がこういうことを言うのは珍しかった。
普段はもっとふざけたことしか言わない。
「ありがとう」と言ったら、颯太はすぐに「やば、俺いいこと言っちゃった」と照れて顔を逸らした。
それがおかしくて、思わず笑った。
入り口のガラス越しに、雨が静かに降り続けていた。
七月の雨は重たいけれど、誰かと並んで眺めていると、悪くない気がした。
炎上に気づいたのは、そのさらに数日後の夜のことだった。
梅雨明け間近の、蒸し暑い夜。
シャワーを浴びて、濡れた髪のままソファに座って、何気なくスマホを手に取った。
メモアプリを開こうとして——SNSの通知が異常に多いことに気づいた。
コンサートから一週間以上経っているのに、なぜこんなに。
何気なく開いて、数秒後に理解した。
ライブの挨拶の動画が、切り取られて拡散されていた。
『アイドルに向いてない』
その部分だけが、文脈ごと切り落とされて。
コメント欄には、見たくない言葉が並んでいた。
スマホを持つ手が、じわりと汗ばんだ。
窓の外で、蝉がまだ鳴いていた。




