第4話 トップアイドルの僕が『安定してる』と言われるたびに空虚になっていく件
アリーナ公演の翌朝、重い体を引きずってベッドから起き上がった。
全身の筋肉痛が昨日の熱狂が現実だったと教えてくれる。
でも鏡の中の僕の目は、冷めていた。
なんか、自分の顔じゃないみたいだ。
蛇口を捻る。
冷たい水が手のひらに落ちた瞬間、指先が強張った。
(また、これだ)
冷たいものに触れるたびに、胸のどこかがきゅっと収縮する。
あの夢の中の、冷たい手の感触が皮膚に貼りついて剥がれない。
昨日からずっとそうだ。
我ながら重症だと思う。
顔を洗い、タオルで拭う。
鏡の中に「雨宮陽葵」がいる。
整った顔立ち、穏やかな目元、隙のない佇まい。
——今朝は、他人の顔みたいに見えた。
「陽葵、時間だぞ。車、下に来てる」
富田さんの声に、機械的に身支度を整える。
今日からまた分刻みのスケジュールだ。
昨日何万人の前で歌ったその足で、僕はまた「雨宮陽葵」という器に収まっていく。
エレベーターを降りると、樹が先に待っていた。
「遅い」
「ごめん」
「顔色悪いぞ」
「大丈夫」
「……絶対大丈夫じゃないやつの顔してるけど」
樹は結局それ以上何も言わなかった。
ただ先に車へ向かいながら、一度だけ振り返った。その目が「後で話せ」と言っていたけど、僕は気づかないふりをした。
(ごめん、樹。
今は上手く話せる気がしない)
移動中、窓の外を見ながら何度もまぶたを閉じた。そのたびに、あの暗がりにいた彼女の瞳が浮かぶ。
ペンライトも振らず、僕の名前も呼ばず、ただそこに立っていた女性。
白いブラウス。黒髪。祈るように胸元に添えられた手。
(いや、なんで一日経っても鮮明に覚えてるんだ僕は)
「……陽葵。聞いてるか」
「聞いてます」
「今日のインタビュー、恋愛観聞かれるかもしれない。いつも通りのやつ頭に入れとけ」
「『今は仕事が恋人です』的なのですよね。わかってます」
樹がこちらを一瞥した。何かを言いかけて、やめた。
AM 11:00 雑誌インタビュー
「今回のアリーナツアー、一番印象に残っている瞬間はどこですか」
「毎公演、客席の顔を見るたびに、ここに来てよかったと思ってくれている人がいるんだなって実感できて。そういう瞬間の積み重ねが全部、印象に残っています」
完璧な答えだ。嘘でもない。本当にそう思っている。
でも昨夜で一番印象に残っているのは、移動車が客席を通過したあの数秒だ。そんなことは絶対に言えない。
「恋愛については——」
「今は、仕事が恋人です」
しまった。早く答えすぎた。ライターさんが目を細める。僕は微笑みで誤魔化す。
(……昨日の朝までは、本当にそう思ってたんだけどな)
撮影に移ると、カメラマンが言った。
「少し遠くを見てもらえますか。何か探しているような感じで」
言われた通りに窓の外へ視線を向けたら、作らなくても自然とそうなった。シャッターが立て続けに鳴る。
(……探しているような、ね。否定できないのが我ながら笑えない)
PM 2:00 バラエティ収録スタジオ
控え室でひとりになった瞬間、スマホを開いていた。
昨夜から何度も開いては閉じているSNS。「最高だった」「泣いた」「また会いたい」という投稿が何百件と流れてくる。
いいねを押す気になれなかった。指が、昨夜と同じものを探していた。
白いブラウス。黒髪。
ある動画で指が止まった。
移動車が通った時に撮ったらしいブレた映像。その端に——ほんの一瞬、白いブラウスの輪郭が映り込んで、すぐに画面の外へ消えた。
再生して、止めて、また再生する。三秒にも満たない映像を、何度も繰り返す。
(名前も何もわからない。わかるはずがない。それでもなんで止まれないんだ僕は)
コンコン。
ノックの音。
「陽葵くん、本番五分前です」
「今行きます」
スマホを伏せて、深呼吸。
鏡の前に立って「雨宮陽葵」の顔を作る。
明るくて優しくて、誰も傷つけない笑顔。ちゃんとできている。完璧にできている。
——それが、今日は少しだけ怖かった。
PM 10:00 帰宅
今日だけで何回「安定してる」と言われただろう。
マンションの廊下を歩きながらその言葉を反芻する。
安定している、変わらない、いつも通り。褒め言葉のはずなのに、今夜はなんか冷たく響いた。
動かない何かと、ずっとそこにある何かと、何が違うんだろう。
部屋に入って電気をつける。
静かだ。一日分の熱と言葉がドアを閉めた瞬間にすっと抜けていく。誰かの顔も交わした言葉も、何一つ手の中に残らない。
ソファに倒れ込んで、目を閉じる。
すぐに、あの瞳が見えた。
悲しみの色をした、夕暮れみたいな瞳。夢の中で何度も見た色と完全に重なるのに——夢の中と、一つだけ違うことがあった。
あの瞳は、泣いていなかった。
ただまっすぐに、こちらを見ていた。「雨宮陽葵」じゃなくて、その奥の何かを見ていた。
次のステージまで、三日。
また彼女はいるだろうか。もしまたあの瞳と目が合ったなら——今度は、笑ってほしい。
(……お願い。泣かないで)
ただそれだけを、静かに祈った。




