第3話 景色が止まった理由が、まだわからない
ペンライトを握ったまま、祈るように胸元へ手を添えて、僕を見上げている女性がいた。
黒髪のセミロング。白いブラウス。派手な客席の中で、その人だけが静かに浮かび上がって見えた。
――懐かしい。
それだけが、胸の中に落ちてきた。理屈も根拠も何もない。ただその一言が、静かに、確かに、僕の奥底へ沈んでいった。
周囲の音が遠のく。何万人の歓声も、音楽も、移動車の振動も、すべてが水の底に沈んでいくみたいに遠ざかって——気づけば僕の世界には彼女しかいなかった。
プロとしてあるまじき状況なのはわかってる。
でも、目が離せなかった。
彼女の瞳が、一瞬だけ揺れた。
その奥に宿った色を見た瞬間、胸の中で何かが音を立てる。
悲しみだ。
ライトの反射でも、距離のせいでも、気のせいでもない。夢の中でずっと見ていた、あの絶望に染まった色と——同じだ。
澱のように沈んでいた記憶の欠片が、一気に表面まで浮き上がってくる。
煤けた天井。軋む床。冷たい手の感触。ずっと顔が思い出せなかったあの夢の女性が、今、目の前で僕を見ている。
「……っ」
声には出せなかった。
でも唇が勝手に、一度も呼んだことのない名前を形作ろうとする。
完璧だったはずのステップが、微かに乱れた。
笑ってほしい。
気づけば、それだけを思っていた。
何万人を笑顔にすることより、今この瞬間、目の前の彼女に笑ってほしかった。
理由も根拠も資格も何もない。ただ、それだけが僕の全部になっていた。
移動車がステージへ戻っていく。彼女の姿が、遠ざかっていく。
僕は歌い続けた。マイクを握る手が微かに震えていることに気づいていた。でも声は出た。足も動いた。長年身体に刻み込んできた「雨宮陽葵」が、僕の代わりにステージをこなしていく。
さっきまでと、何かが決定的に変わってしまった。それだけは骨の髄までわかった。
残り三曲。二曲。一曲。
アンコールが終わってステージ袖に戻っても、隣で肩を組んでくる湊の熱も、スタッフの顔も、何もかもがどこか遠かった。
「陽葵、さっきステップ乱れてたぞ。どうした」
樹が耳元で低く言う。心配というより、確認する声だ。
「……ちょっと、考え事してた」
「考え事? ステージで?」
樹が眉を上げる。僕は曖昧に笑い返すしかなかった。
(……考え事なんて生易しいものじゃないんだけど)
アンコールが終わり、割れんばかりの拍手の中をステージ裏に引き上げる。
「最高だった」「今日のアリーナやばかった」という声が飛び交う。
僕も笑っていた。ちゃんと笑えていたと思う。
でも更衣室の椅子に一人座った瞬間、どっと何かが押し寄せてきた。疲れとは少し違う。胸の奥に、重いものが引っかかったまま取れないでいる。
あの人は、誰なんだろう。
目を閉じると、まだ見える。祈るように手を組んで、僕を見上げていた横顔。その瞳の奥の、あの悲しみの色。
スマホを取り出すと、今夜のコンサート終演後の投稿が絶え間なく流れていた。笑顔、歓声、ペンライト。僕はそれをひたすら遡っていく。
アリーナ席のセンターブロック付近。白いブラウス。黒髪。
こんな手がかりで見つかるわけないってわかってる。
でも指が止まらなかった。
何百件かスクロールしたところで、一枚の写真が目に留まる。わずかにブレた写真の端に、白いブラウスの後ろ姿が小さく写っていた。
心臓が、跳ねる。
でも、それだけだった。名前も顔も何もわからない。画面を閉じても開いても、そこにあるのは見知らぬ誰かの断片だけだ。
更衣室の蛍光灯が、静かに白く灯っている。
次のコンサートまで、四日。
四日間、この引っかかりを抱えたままリハをして、インタビューを受けて、SNSに笑顔の写真を投稿するんだろう。「雨宮陽葵」として、完璧に。
誰にも何も悟られないように。
でも——瞼の裏に、白いブラウスの残像が揺れている。あの悲しみの色が、まだ消えない。
唇が形作ろうとした名前も、夢との繋がりも、何も分からない。
ただ一つだけ、はっきりとわかることがある。
四日後、僕はまたステージに立つ。
そしてきっと、彼女をまた探す。
――それがどれだけ身勝手な衝動だとしても、もう知らないふりはできない。




