第2話 前世持ちアイドルが、何万人の中でたった一人を見つけてしまった話
六月の夜は湿っていて、肌にまとわりつく。
アリーナの外、街灯の下で紫陽花が青紫の影を落としていた。雨に濡れたわけでもないのに、泣き出しそうなくらい瑞々しい。
なんか今日の空気、妙に重いな、と思いながら楽屋に戻った。
扉の向こうから、地鳴りみたいな歓声が漏れ聞こえてくる。
「……よし、みんな。準備はいいか?」
樹の声に、自然と円陣を組んだ。湊が緊張をほぐすように肩を回して、颯太はもう今にも飛び出しそうな顔をしている。僕も樹の手の上に手を重ねた。
「今日のアリーナ、過去最高に熱いらしいぞ。……陽葵、顔白いけど大丈夫か?」
「大丈夫。ただ……なんか、胸が騒ぐんだよね。理由はわからないけど」
「気合が入ってる証拠だよ! 行こうぜ、ルナステラ!」
颯太の声を合図に、ステージ裏の暗がりへ駆け出した。
せり上がりの機構の上に立って、息を整える。
足元から伝わってくるのは、アリーナ全体を揺らす振動だ。何万人分の期待が、床を通して身体の芯まで響いてくる。
いつもと同じだ。何も変わらない。
自分にそう言い聞かせた、その瞬間。
一瞬の静寂。
爆音とともに、視界が開けた。
眩いスポットライトが容赦なく僕を照らし出す。
ペンライトの海が、外の紫陽花より鮮やかな青と白の光を放って激しく揺れている。天井まで届きそうな歓声が、空気ごと僕を包んだ。
一曲目のイントロと同時に、「雨宮陽葵」を完全に降ろす。
歌い出し。指先の角度。視線の配り方。すべて練習通り、完璧に。これは僕にとってある種の儀式だ。
ライトの下に立った瞬間、日常の重さがすっと剥がれ落ちる。楽屋での胸騒ぎも、帰宅の車内でいつも僕を待ち構えている空虚も、ステージの上では薄れていく。
僕は太陽でなければならない。影を持たない、光だけの存在で。
二曲目に入ると、客席のボルテージが上がった。
泣いている人がいる。口パクで歌詞を追っている人がいる。目が合った瞬間に崩れ落ちそうになっている人がいる。
これは本物だ、といつも思う。僕がどれだけ「演じている」としても、客席から届くこの熱だけは、間違いなく本物だ。
三曲目、四曲目と畳み掛ける。
汗が顎を伝い、首筋を滑り落ちる。それでも足は止まらない。ここにいる間だけは、完全に「雨宮陽葵」でいられるから。
でも——意識のどこか一箇所だけが、妙に冷めて、凪いでいた。
嵐の目の中みたいな感覚だ。周囲は激しく渦巻いているのに、僕の中心だけが静かに、何かを待っている。
……探している。
何を、とは自分でもわからない。ただそう気づいた瞬間から、視線が無意識に客席の奥へ引き寄せられていった。
コンサート中盤。激しいダンスナンバーが終わり、ミディアムバラードに移った時だった。
火照った身体に染みるような、静かなイントロが流れる。ペンライトの揺れがゆっくりになって、会場全体が息を合わせるように静まっていく。
移動車がゆっくりと客席の間を走り始めた。
ステージから見下ろす景色と違って、ここからは一人ひとりの顔がちゃんと見える。曲に合わせて目を閉じている人。友達と手を繋いでいる人。頬に涙の跡を光らせながら、それでも笑っている人。
この人たちのために歌っている。本当にそう思っている。
それなのに、僕の視線だけは——誰かを探すみたいに彷徨っていた。
アリーナ席のセンターブロック近くを通り過ぎようとした、その瞬間。
景色が、止まる。




