第18話 炎上で傷ついた僕が、仲間との日常と不思議な夢に救われて、少しずつ本当の自分を取り戻していく
私は空を見上げ、小さくその名前を呟いた。
すると、不思議と心が温かくなった。
懐かしい体温に触れたような。
長い旅の果てに、ようやく帰る場所を見つけたような。
誰よりも大切にしたい。
もう二度と、失いたくない。
そんな想いが、胸の奥から静かに広がっていく。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
悲しいわけじゃない。
ただ、嬉しかった。
ようやく会えたことが。
ずっと探していた人に、やっと触れられた気がしたことが。
私は濡れた睫毛のまま、小さく笑った。
窓の外では、雨上がりの光が街を淡く照らしている。
まるで、止まっていた時間が再び動き出したみたいだった。
運命の歯車は、誰にも気づかれないほど静かに。
けれど、確かに回り始めていた。
◇
(雨宮陽葵視点)
翌日の夕方。
電気をつけていない部屋に、窓から差し込む夕陽が広がっていた。
ベッドに横になったまま、枕元のスマートフォンを手に取る。
画面を開くと、つむぎさんから返信が届いていた。
『読んでいて、胸がいっぱいになりました。夢の話、不思議ですね。でも、なんだかわかる気がします。陽葵くんのこと、応援しています。コンサート、絶対に見に行きます』
僕は、そのメッセージを何度も読み返した。
丁寧で、優しい言葉。
けれど、なぜか一つの言葉が心に引っかかった。
――なんだかわかる気がします。
どうして、わかるんだろう。
つむぎさんも、同じような夢を見たことがあるんだろうか。
夕陽に染まる天井をぼんやりと見つめたあと、僕は再び画面に目を落とした。
『ありがとうございます。つむぎさんが来てくれるなら、頑張れる気がします』
そう返信して、送信ボタンを押す。
途端に、恥ずかしさが込み上げてきた。
「……何、言ってるんだろ」
思わず唇を噛む。
まるで、彼女に会えることを心待ちにしているみたいだ。
いや、実際そうなのかもしれない。
そんな自分の気持ちに気づいて、僕はスマートフォンを胸元に伏せた。
◇
梅雨が明け、東京に本格的な夏がやってきた。
七月後半。
朝から容赦ない日差しが照りつけ、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。
六月の重たい湿気とは違う、肌を焼くような暑さだった。
そして、コンサートまであと数日。
来月から始まるグループツアーに向けて、最後の通しリハーサルが始まっていた。
前回のグループコンサートから、まだ二ヶ月も経っていない。
それなのに、ずいぶん昔のことのように感じる。
あの頃の自分と、今の自分。
何が変わったのかは、うまく説明できない。
ただ、以前とは少しだけ、立っている場所の感覚が違っていた。
◇
練習スタジオに到着したのは、午前十時だった。
廊下を歩いていると、扉の向こうから聞き慣れた声が響いてくる。
「なあ、お前ら聞いて! 昨日、夢にアイドルが出てきたんだけど!」
「おお、よかったじゃん」
「よくねえよ! その子、俺のこと全然知らなかったんだぞ! 夢の中でも無名だった、俺!」
「夢の中くらい売れとけよ」
蓮の冷静なツッコミに、誰かが吹き出した。
「ひどくね!? 俺、朝から落ち込んでんだけど!」
どうやら、いつも通りらしい。
僕は笑いながら、スタジオの扉を開けた。
「おはよう」
「あっ、陽葵!」
床に大の字で寝転がっていた颯太が、勢いよく起き上がる。
「聞いてくれよ、陽葵! 俺、夢の中でも売れてなかった!」
「それは……ドンマイ」
「慰め方、雑!」
「元気そうで何よりだな」
蓮が呆れたように笑う。
「いや、元気じゃないって!」
「じゃあ、もう一回寝たら?」
「夢の続きに期待すんなってこと!?」
「自分でわかってるじゃん」
僕が思わず笑うと、颯太もつられて笑った。
「ていうか、陽葵は夢に誰か出てくる?」
「……出てくるよ」
「誰? 有名人?」
「知らない人。でも、知ってる気がする人」
颯太が首を傾げた。
「どっちだよ、それ」
「自分でもよくわからない」
「何それ、怖っ!」
そう言いながらも、颯太は面白そうに笑っていた。
「はいはい、朝から騒がない。陽葵、これ」
蓮がタオルを投げてよこす。
「昨日のリハ映像、見た?」
「見たよ」
「じゃあ、ラストの転換。もう少し早くできそう?」
「うん。今日、試してみる」
いつもの会話だった。
何でもない、当たり前のやり取り。
けれど、今の僕には、それがひどく心地よかった。
炎上してからというもの、誰かと話すたびに、無意識に身構えていた。
心配をかけないように。
迷惑をかけないように。
余計な気を遣わせないように。
そんなことばかり考えていた。
でも、今は違う。
少しだけ、自然に笑えている。
――戻ってきたのかな。
そう思えたことが、嬉しかった。
◇
練習が始まると、スタジオの空気が一変した。
振付師の田中さんが、モニターの前から次々と指示を飛ばす。
「そこ、もう一度! 陽葵、今の入りが少し遅い!」
「はい!」
音楽が流れ、僕たちは再び踊り始めた。
何度も同じ振付を繰り返すうちに、額から汗が流れ落ちる。
冷房は効いているはずなのに、身体の熱はなかなか引かなかった。
「暑っ! ちょっと待って、無理! 溶ける!」
曲が止まるなり、颯太が床にしゃがみ込んだ。
「まだ一曲目だぞ」
蓮が冷静に告げる。
「だからだよ! 先が長すぎるんだって!」
「水飲め、水」
「蓮、保護者みたい!」
「お前の保護者になった覚えはない」
「じゃあ、陽葵! 俺のこと保護して!」
「自分で水飲んで」
「陽葵まで冷たい!」
スタジオに笑い声が広がる。
「はい、そこ! 休憩中も元気なのはいいけど、次いくよ!」
田中さんの声が飛んできた。
「「「はーい!」」」
メンバー全員の声が重なった。
その瞬間、また笑いが起きる。
そんな騒がしさが、今は妙にありがたかった。
音楽が流れれば、余計なことを考えずに済む。
炎上のことも、絶え間なく届く通知も。
暗い部屋で、床に転がった薬の瓶を見つめていた夜のことも。
身体を動かし、音に集中している間だけは、頭の中が静かになった。
忘れたわけじゃない。
苦しさが、完全に消えたわけでもない。
それでも、今は目の前のことに集中できている。
それが、嬉しかった。
「よし、いいね! 陽葵、今の感じ!」
田中さんの声に、僕は小さく息を吐いた。
隣に来た颯太が、ぽん、と肩を叩く。
「なあ、陽葵」
「ん?」
「なんか、戻ってきた感じするな」
「……そう見える?」
「見える見える。最近、ずっとちょっと違ったじゃん。でも今日は、いつもの陽葵って感じ」
「そっか」
「うん。よかった」
それだけ言うと、颯太は何事もなかったように次の立ち位置へ戻っていった。
その何気ない一言が、胸に残った。
自分では気づかなかった変化を、ちゃんと見てくれていた人がいる。
それだけで、少し救われた気がした。
◇
昼休憩。
スタジオの隅でペットボトルの水を飲んでいると、湊が隣に腰を下ろした。
「ツアーの曲順、だいぶ固まってきたね」
「そうだね」
「ソロの曲も決まった?」
「ああ、あれなら……歌わないよ」
「あのピアノの曲?」
「うん。あの曲は、特別だから」
湊は少し考えるように黙ってから、頷いた。
「そっか。ソロコンの映像、見たよ。あの曲だけ、空気が変わったね」
「……そうかな」
「うん。いい意味で」
湊はペットボトルを傾け、喉を潤した。
「陽葵って、あの曲を歌ってるときだけ、どこか遠くを見てるような顔になるんだよね」
遠くを見ている。
言われてみれば、そうかもしれない。
あの曲を歌うと、不思議な感覚に包まれる。
夢の中の縁側。
優しく握り返してくれた手。
もう一度会いたいと願った、あの人の面影。
まるで、どこか遠い場所へ引き寄せられていくような感覚だった。
「……湊は、前世ってあると思う?」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
けれど、湊は笑わなかった。
「うーん……どうだろうね」
少し考えたあと、静かに続ける。
「でも、初めて会ったはずなのに、懐かしいって感じる人はいるよね」
「……いるね」
「それが何なのかは、わからないけど」
湊はふっと笑った。
「陽葵の歌を聴いてると、そういう気持ちになることがあるよ」
それ以上、湊は何も言わなかった。
僕も、何も聞かなかった。
ただ、その言葉を心の中で何度も繰り返していた。
◇
午後は、歌のパート練習だった。
ボイストレーナーの橘さんは、元オペラ歌手という経歴の持ち主だ。
発声には一切妥協せず、細かな息遣いまで見逃さない。
「陽葵くん、ここのロングトーン。もう少し息の支えを意識してみて」
「はい」
僕は姿勢を整え、再び同じフレーズを歌った。
何度も、何度も。
その途中、不意にあの夢が脳裏をよぎった。
病に伏した部屋。
かすれて、ほとんど出なくなった声。
伝えたい言葉があるのに、息が続かず、音にすることさえできなかった自分。
――今は、ちゃんと声が出る。
こうして歌える。
音楽に乗せて、自分の想いを誰かに届けられる。
それが、どれほど幸せなことなのか。
あの夢を見るようになってから、以前より強く感じるようになった。
歌えることは、当たり前じゃない。
この声で、誰かに何かを伝えられること。
それ自体が、かけがえのないものなのだと思う。
「うん、いいですね。その感覚を忘れずにいきましょう」
橘さんの言葉に、僕は静かに頷いた。
◇
翌日、事務所でツアーの衣装合わせがあった。
衣装部屋には、色とりどりの服が何十着も並んでいる。
布の匂いに、アイロンの蒸気が混じった独特の空気。
いつもならメンバーの冗談が飛び交う場所だけれど、今回は少し勝手が違った。
ツアー全体の世界観は統一されているものの、ソロパートの衣装は一人ひとりに合わせて用意されている。
自分のためだけに選ばれた服を、一人で鏡の前に立って確かめる。
慣れているはずなのに、どこか落ち着かなかった。
担当してくれるのは、梶原さんだった。
グループのデビュー当時からお世話になっている衣装スタッフで、言葉は率直だけれど、決して押しつけがましくない。
そして、見立てが驚くほど的確な人でもある。
「陽葵くん、久しぶり。そこに座って」
促されるまま、鏡の前の椅子に腰を下ろした。
梶原さんは何着かの衣装をハンガーに掛けたまま、少し離れた場所から僕を見つめた。
採寸するわけでも、すぐに服を選ぶわけでもない。
ただ、じっと僕を見ている。
見られているというより、内面まで見透かされているような気分だった。
「最近、ちょっと痩せた?」
「……そうですか?」
「うん。ちゃんと食べてる?」
「食べてますよ」
「食べてる人の顔じゃないけどね」
あっさり言い切って、梶原さんは一着のシャツを差し出した。
「とりあえず、これ着てみて」
深いネイビーのシャツだった。
袖を通し、鏡の前に立つ。
悪くない。
そう思ったのだけれど、梶原さんは納得していない様子だった。
「うーん……」
「……似合わないですか?」
「似合わないわけじゃないんだけどね」
腕を組み、鏡越しに僕を見ながら、梶原さんは言葉を続けた。
「陽葵くんって、濃い色を着ると、服の印象が強くなりすぎるのよ」
「服の印象が?」
「そう。色によっては、着る人より服のほうが目立っちゃうことがあるでしょ?」
「……ありますね」
「陽葵くんは、淡い色のほうが持ち味が生きるタイプなの」
持ち味。
自分の持ち味なんて、考えたこともなかった。
「本人の雰囲気を、服が邪魔しないのよ。儚さとか、静かな存在感とか。そういうものが自然に伝わってくるの」
「儚さ……」
思わず、その言葉を繰り返した。
自分では、そんなふうに思ったことはない。
地味で、人前に出るのが苦手で、目立つことに慣れていない。
ずっと、そう思っていた。
「じゃあ、次はこっちね」
梶原さんが差し出したのは、淡いアイボリーのシャツだった。
ソロコンサートで着たイエローのシルクシャツよりも、柔らかく落ち着いた色合いだ。
袖を通し、再び鏡の前に立つ。
その瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
ネイビーのシャツを着ていたときは、服に自分を合わせているような感覚があった。
でも、今は違う。
無理に自分を飾らなくても、そのままで立っていられる。
「ほら、やっぱりこっち」
梶原さんが満足そうに頷いた。
「淡い色って、弱々しく見えると思う人もいるけど、そうじゃないの。陽葵くんは、余計なものを足さないほうが、その人らしさが伝わるんだよね」
鏡越しに、梶原さんと目が合った。
「濃い色は鎧になる。でも、淡い色は、鎧を脱いだまま立つ感じ」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。
――ずっと、鎧を着ていた気がする。
アイドルとしての笑顔。
求められる自分を演じること。
何を聞かれても、笑って「大丈夫です」と答えること。
炎上してからは、その鎧がますます重くなった。
本当は苦しくても、平気なふりをした。
傷ついていても、笑顔を作った。
そうしなければ、ここにいられない気がしていたから。
「……梶原さん」
「ん?」
「僕って……鎧を脱いで立てる人間に、見えますか?」




