第14話 神社の軒下で雨宿りしていた女性が、ずっと探していた人だった
向かう場所は、もう決めていた。
電車に揺られながら、窓の外をぼんやりと眺める。一駅、また一駅と過ぎていくたびに、意識だけが少しずつ軽くなっていった。
やがて、見慣れた看板が目に入る。
『月読神社』
紫陽花で知られる神社だ。
理由なんてない。ただ、気づけばそこに来ていた。
七月半ばの東京は、朝から息が詰まるような湿気だった。
帽子を被って、マスクをつけて、境内へと続く参道を歩く。
鳥居をくぐった瞬間、都会の喧騒が遠くなる。
蝉の声が、どこかから聞こえ始めた。
参道の両脇に、紫陽花が咲いている。
盛りを過ぎかけた青と紫の花が、風もないのに静かに揺れていた。
——懐かしい。
この色を、この佇まいを、どこかで見たことがある。
足が、自然と止まる。
炎上してから、外に出るたびに誰かの視線が気になっていた。
でも今、この境内の静けさの中では、それが少し遠かった。
手水舎で手を清めて、石段を上がる。
本殿の前に立って、賽銭を入れた。
深く、二度、頭を下げる。
目を閉じると、頭の中が久しぶりに静かだった。
何を祈るか、決めていない。
でも自然に言葉が浮かんできた。
——誰かを笑顔にしたくて、ここにいる。
その気持ちだけは、本物だから。
どうか、それだけは守らせてほしい。
深く息を吸う。
久しぶりに、ちゃんと吸えた気がした。
目を開けた瞬間、空が翳った。
ざぁっ、と、雨が降ってくる。
慌てて本殿の脇にある古い神楽殿の軒下へ駆け込む。
雨はみるみる強くなって、参道を白く染めていく。
黒い傘を開いて、その場に立った。
止む気配がなかった。
古い木材の香りと、濡れた土の匂いが混ざる。
雨粒が紫陽花を揺らして、色を深めた花弁から雫が落ちていく。
その景色を、ぼんやりと眺めた。
その時、軒下に誰かがいることに気づいた。
傘も持たずに、古い木材に背を預けて立っている。ブラウスの肩が、少し濡れている。
女性だった。
雨に濡れる紫陽花を、静かに見つめていた。
(……傘、ないんだろうか)
声をかけようとして、少し躊躇う。
マスクをしているとはいえ、気づかれたら面倒なことになるかもしれない。
今の自分の名前は、あまりいい意味で広まっていない。
でも、雨はまだ強かった。
「……あの」
気づいたら、声が出ていた。
女性が、驚いたように振り向く。
その顔を見た瞬間、息が止まる。
どこかで、見たことがある。
記憶の中を、必死に手繰り寄せた。
引き出しを一つずつ開けるように。
心の底に、確かな重さが生まれる。
「傘、持っていないんですか?」
我に返って、そう聞く。
声が、少し掠れていた気がした。
「……あ、はい。急に降ってきたので」
「そうですよね。予報になかったですし」
傘を広げて、彼女の方へ一歩踏み出す。
「よかったら、入りますか? 駅の方までなら、お送りしますよ」
その瞬間、彼女の顔を正面から見た。
傘を差し出した手が、止まる。
雨音が、遠のいていく。
視界に滲むのは、黄色い光。
数千人の中でただ一瞬だけ重なった、あの視線。
コンサートの夜、黄色いワンピースのまま立っていた彼女と——同じ、目だった。
「……っ」
息が、喉の奥でほどける。
彼女は瞬きもせずに、こちらを見ている。
まるで、何かを待っているみたいに。
——ねえ。
——君が、そうなの?
ずっと探していた人が、君なの?
傘を持つ手が、微かに震えていた。




