第13話 雨宮陽葵じゃない僕を知っている人たちがいる
電話の向こうで、母がほっと息を吐く気配がした。
窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっている。
昨夜まで、世界は真っ暗だと思っていた。
でも——誰かの言葉は、こんなふうに、ちゃんと人を引き留めるのだと知った。
葉山つむぎさんの言葉も。母の声も。
次の休日、数ヶ月ぶりに実家へ向かった。
新幹線の窓の外を、灰色がかった景色が流れていく。
低い雲。濡れた線路。雨を含んだ田んぼの匂い。
帽子を深く被った窓ガラスの中の自分は、テレビの「雨宮陽葵」じゃなく、ただ少し疲れた二十二歳の青年に見えた。
最寄り駅に着くと、空気が違った。
湿った風の匂いも、歩く人の速度も、全部がゆっくりしている。
改札を抜けた瞬間、小さく手を振る人影が見えた。
「陽葵!」
薄いベージュのカーディガンの母が、昔と同じように少し早足でこちらへ来る。
「……迎え、来なくてよかったのに」
「だって久しぶりなんだもの」
笑う顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ緩む。
家までの道を並んで歩く。
途中、向日葵が咲いていた。
雨粒を抱えた花が、住宅街の片隅で静かに揺れている。
「テレビ、ちゃんと見てるわよ。この前のドラマも良かった」
「……ありがとう」
「でも、ちょっと痩せた?」
「そんなことないよ」
「あるわよ」
(この人には絶対にかなわない)
こんなふうに他愛もない言葉を交わしたのは、いつ以来だろう。
実家の玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
洗剤の匂い。木の床の匂い。夕飯の出汁の匂い。
「おう、来たか」
リビングから父が顔を出す。
相変わらず無口で、少し不器用そうな声。
でもその声に、安心した気配が混じっているのがわかった。
「……久しぶり」
「元気だったか」
「まあ、それなりに」
父はそれ以上深く聞かなかった。
でも僕の顔を見たあと、ほんの少しだけ眉を寄せた。
たぶん、気づいている。
僕が元気じゃないこと。
でも父は、母みたいに踏み込まない。
聞かない代わりに、夕飯の時、好きなおかずを黙って多めに取ってくれるような人だ。
食卓には肉じゃが、焼き魚、胡麻和え、味噌汁が並んでいた。
「うわ、懐かしい」
「陽葵これ好きだったでしょう」
「覚えてたんだ」
「当たり前じゃない」
その言葉に、なぜか少しだけ胸が痛くなる。
僕はずっと、忘れられないように生きてきた気がする。
誰かに必要とされるように。
誰かの記憶に残るように。
でも本当は、こんなふうに当たり前みたいに覚えていてくれる場所が、最初からあったのかもしれない。
食卓を囲みながら、他愛もない話をした。
近所のスーパーが改装したとか、父が最近ウォーキングを始めたとか。
テレビではローカル番組が流れていて、笑い声と食器の音が静かに混ざる。
信じられないくらい、穏やかだった。
「……仕事、大変なんだろ」
不意に父が言った。
「まあ、忙しいけど」
「ニュース見たぞ」
「……なんか、ちょっと大げさになっちゃって」
「そうか」
短く頷いて、それ以上は聞かなかった。
でも母だけは、僕の顔をじっと見ていた。
その視線から逃げるみたいに、味噌汁に口をつける。
温かく、じわりと身体の奥に染みていく。
その温かさに、危うく泣きそうになった。
食後、縁側に座った。
雨上がりの庭は少し湿っていて、濃い緑の葉に残った水滴が夜の光を反射している。
子供の頃、ここでよく本を読んでいた。
母が持ってきた麦茶を受け取る。
「……少し、顔色戻ったわね」
「そう?」
「うん」
しばらく、どちらも喋らなかった。
その沈黙が、不思議と苦じゃない。
東京ではいつも何かを演じていた気がする。
でもここでは、黙っていても許される。
「陽葵、無理に”いい子”でいようとしなくていいのよ」
「……別に、そんなつもりないよ」
「あるわよ」
柔らかい声だった。
「昔からずっと。あんた、人に迷惑かけるの怖がるでしょう。でもね、たまには頼ってほしいの」
風が吹いた。
庭の花が静かに揺れる。
「一人で抱えてる人って、わかるものよ。……そういう時、人は同じ寂しさを知ってる人に出会うから」
その言葉が、胸の奥に残った。
同じ寂しさを知っている人。
理由もなく、あの白いブラウスの女性を思い出す。悲しみを抱えた瞳。
祈るみたいに胸元で組まれた手。
そして——葉山つむぎ、という名前。
帰る時間になり、玄関で靴を履く。
「また帰ってきなさい」
「……うん」
「次はもっと痩せる前にね」
思わず苦笑する。
父は少し離れた場所から「身体壊すなよ」とだけ言った。
駅へ向かう途中、振り返ると、実家の窓から柔らかな灯りが漏れていた。
あそこには、「雨宮陽葵」じゃない僕を知っている人たちがいる。
その事実が、凍えていた胸を温めてくれる気がした。
実家から戻って、いくつか夜を越えた。
母の言葉は、まだ耳の奥に薄く沈んだままだった。
——人は“同じ寂しさを知ってる人”に出会うから。
誰のことなのか、僕はもう知っている。
でも、その人のいる場所へ向かう方法だけが、どうしてもわからなかった。
それでも——休日の朝、僕はいつの間にか外へ出ていた。




