第12話 母親の声一つで、五年分が崩れた
視界が滲む。
消えてしまいたかったはずなのに。
終わりだけを望んでいたはずなのに。
それでも——この名前に、この言葉に、僕の何かが強く引き留められている。
胸が痛い。
でもそれは今までの痛みとは少し違う。
冷たく凍っていた場所に、急に熱が戻ってきた時みたいな、そんな痛みだった。
震える指で、スマホを抱きしめる。
壊れてしまいそうなほど、強く。
呼吸が乱れる。
浅かった息が、初めて苦しいくらい胸に入ってくる。
涙が落ちる。
一粒落ちて、それから、止まらなくなった。
こんなふうに泣いたの、いつぶりだろう。
まだ、終われない。理由なんてわからない。
それでも、この世界のどこかにいるこの人に、会わなければいけない気がした。
暗闇の中で声が零れる。
絶望の叫びじゃなく——凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていく音だった。
スマホを抱きしめたまま眠ってしまったらしい。
目が覚めた時、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいた。
乾いた喉。冷え切った部屋。昨夜のことが、夢だったみたいにぼんやりしている。
でも、胸の奥には確かに何かが残っていた。
完全に消えてしまう寸前だった場所に、小さな灯がひとつだけ戻っている。
スマホの画面には、昨夜の通知がそのまま残っていた。
葉山つむぎ。
その名前を見ただけで、胸の奥が微かに熱を持った。指先でそっと画面を撫でる。
「ありがとう」だけじゃ、足りない気がする。
あの言葉は、たぶん僕が思っている以上に、僕を救ってしまったから。
その時、着信音が鳴った。
びくり、と肩が揺れる。
画面を見る。
『母』
その二文字に、一瞬息が止まった。
数秒迷ってから、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『陽葵? 今、大丈夫?』
「うん。どうしたの」
『……ニュース見たわよ』
ああ、やっぱり。
身体のどこかが静かに強張った。
『ちゃんとご飯食べてる?』
最初の言葉がそれだった。
責めるでもなく、事情を聞くでもなく。
「……食べてるよ」
『嘘。声で分かる』
思わず、小さく息が漏れる。
母は昔から鋭い。
僕の「大丈夫」が嘘だとすぐ見抜いた。
父は「大丈夫」と言えば引き下がるのに、母だけは絶対に引き下がらない。
『眠れてる?』
「……まあ、それなりに」
『陽葵』
静かな声。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
それが余計にきつい。
『あんた、昔からそうだったでしょう。つらいくせに、平気そうにするの。転んで膝擦りむいても、泣かなかったじゃない』
喉の奥が、熱くなった。
(やめてほしい。そんな話をされたら、今まで必死に固めていたものが崩れる)
「……もう子供じゃないよ」
『知ってるわよ』
母が小さく笑った気配がした。
『テレビで見るあんた、ちゃんとしてるもの。びっくりするくらい立派になって』
少しの間。
『でもね、陽葵。立派じゃなくても、別にいいのよ』
その瞬間、胸の奥で何かが音を立ててひび割れた。
優しく、誠実で、完璧で、誰も傷つけない「雨宮陽葵」でいなければ愛される資格がない、ずっとそう思っていた。
なのに。
『あんたが元気でいてくれれば、それでいいの』
あまりにも、温かくて。
「……っ」
泣くつもりなんてなかった。
でも一度崩れ始めたものは止められなかった。
「……ひ、まり?」
電話の向こうで、母が少し驚いたように名前を呼ぶ。
みんなの前では一度も崩れなかったのに。
アイドルの顔でいられたのに。
母親の声一つで、こんなに簡単に。
「……ごめ、ん」
『謝らなくていいの』
ぽたぽたと涙が落ちる。
昨夜あれだけ泣いたのに、まだこんなに残っていたのかと思うくらい、次から次へと溢れてきた。
『……帰っておいで。今度の休み、久しぶりに顔見せなさい。お父さんも心配してるから』
実家。
しばらく帰っていない場所。
東京でアイドルとして生き始めてから、あそこへ戻ることは少し怖くなっていた。
昔の自分に戻ってしまいそうで。
でも今の自分には、必要な気がした。
僕は涙を拭いながら、小さく頷く。
「……うん」




