第11話 葉山つむぎという名前に救われた夜
最初は違うと思っていた。
でも何度も何度も同じ言葉を見ていると、どこかで抵抗する力がなくなってくる。
反論する言葉が、出てこなくなってくる。
誰かを笑顔にしたくて、ここにいると思っていた。でも僕がいることで誰かを傷つけているなら。
みんなに迷惑をかけているなら。
最初から、何も持たないままでいればよかったのかもしれない。
スマホを床に置く。
冷房の音だけが、低く続いていた。
窓の外では、もう蝉の声がしなかった。
いつの間にか、止んでいた。
——彼女に、会いたい。
ふと、思う。
でもその気持ちさえ、今の自分には遠かった。
繋ぎ止めていたものが、少しずつほどけていく。
僕は壁に背を預けたまま、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
息が浅い。
三日前から、ずっとそうだった。
深く吸おうとするたびに、どこかで遮られてしまう。
見えない何かに、内側から押さえつけられているみたいに。
「……アイドルになんて、ならなければよかった」
かすれた声が、暗闇に吸い込まれていく。
返ってくるものは、何もなかった。
床に座り込んだまま、天井を見上げる。
白い天井。何も映さない、空っぽの色。
頭の奥がずっと鈍く痛い。
ここ数日、眠れているのかもよくわからない。
浅い眠りの底で、知らない誰かの泣き声だけが耳の奥に残っている。
朝が来れば、身体を起こして、鏡の前で笑顔を作って、現場に向かって、誰かを安心させるための言葉を並べる。
「大丈夫です」
「心配しないでください」
「これからも頑張ります」
口は勝手に動いた。
笑う角度も、声の柔らかさも、目を伏せるタイミングも、全部身体に染み付いている。
壊れているのに、ちゃんとできてしまう。
「雨宮陽葵」は完璧に動いてしまう。
まるで自分の代わりに生きている別人みたいで、楽屋で鏡を見るたびに、そこに映る人間が自分じゃない気がした。
SNSを開けば、無数の言葉が流れていく。
『失望しました』
『メンタル弱いなら辞めれば?』
『結局ナルシストなんだね』
最初は一つ一つに傷ついていた。
でも不思議だ。
痛みは繰り返されると、麻痺していく。
代わりに残るのは、もっと静かで、もっと深いものだった。削れていく感覚。
心の内側を、細い紙やすりで何度も何度も擦られているみたいに。
気づけば、「違う」と思えなくなっていた。
僕は本当に誠実だったんだろうか。
優しさだと思っていたものは、ただ嫌われたくなかっただけなんじゃないか。
誰かを笑顔にしたいと思っていたのも、結局は自分が救われたかっただけなんじゃないか。
考え始めると、止まらなかった。
否定の言葉はいつの間にか、自分自身の声に変わっていく。
もう頑張らなくていい。
もう笑わなくていい。
もう誰かを失望させなくていい。
そう思った瞬間、胸に張り付いていた重さが、ほんの少しだけ軽くなる気がした。
指先が痺れる。
身体が鉛みたいに重い。
暗闇の中で、どこかへ消えてしまいたいという気持ちが、静かに、じわじわと、形を持ち始めていた。
ふと、視界の端に、ぼんやりとした光が滲む。
リビングの棚に置かれた、小さな薬の瓶。
街灯の淡い光を受けて、その輪郭だけが浮かび上がっている。
──これを飲んだら、どうなるんだろう。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
自分でも驚くほど、唐突だった。
本当に消えてしまいたいわけじゃない。
ただ、この苦しさから少しだけ離れたかった。
何も考えずに眠ってしまえたら。
明日のことも、SNSの言葉も、自分を責める声も、全部忘れられたら。
ほんの一瞬、そんなことを考えてしまった。
「……僕、何考えてるんだろう」
小さく呟いて、苦笑する。
ここ数日、ちゃんと眠れていないせいだろうか。
それとも、心のほうが限界だったのだろうか。
僕は床に座ったまま、しばらく瓶を見つめていた。
さっきまで、あれほど大きく見えていたものが、
少しずつ、ただの薬の瓶に戻っていく。
怖くなった。
自分がこんなことを考えたことが。
一瞬でも、その先を想像してしまったことが。
「……違う」
誰に言うでもなく、首を横に振る。
僕は、まだ何も終わらせたくなんてない。
ただ、疲れていただけだ。
そう思いたかった。
そのとき――
――ピコン。
暗い部屋に、小さな通知音が響いた。
あまりにも些細で、けれどこの部屋には不釣り合いなほどはっきりとした音。
スマホの画面が、白く浮かんでいた。
反射的に視線を向ける。
アカウント名:葉山つむぎ
『陽葵くんの言葉、ちゃんと届いてます。ありがとう』
「……っ」
息が、止まる。
知らない名前のはずなのに。
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが、ゆっくりほどけていく。
張り詰めていた糸が、音もなく切れていくみたいに。
……どうして、こんなに懐かしいんだろう。
世界中から「お前はいらない」と言われている気がしていた。
でもこの人だけは違う。
言葉尻じゃなく、その奥にあったものを、ちゃんと拾い上げてくれていた。
「……あ、あ……」
暗闇の中に、小さな灯がともった気がした。




