第77話「ホーム指数、臨界」
モップが淡々と報告した。
「ホーム指数、臨界です」
俺は理解した。今、逃げたら一生後悔する。
ゴゴゴゴゴッ!!
迷宮の玄関ホールで、絶え間ない地鳴りが響き渡っている。
床の敷石が波打ち、壁の木材がミシミシと悲鳴を上げながら、無秩序に新しい空間を生み出していく。
天井からはパラパラと漆喰の粉が落ちてきていた。
「た、ただいま……! ただいま……っ!」
玄関の上がり框に立ち尽くすセレナは、両手で顔を覆ったまま、震える声でその言葉を繰り返し続けていた。
彼女の足元からは、制御を失った凄まじい魔力の奔流が渦を巻いている。
極度の緊張と、行き場のない感情の昂り。
それが、この迷宮の心臓部である『ホーム指数』を暴走させているのだ。
「セレナ! もういい、ストップだ!」
俺は揺れる床を踏み越え、彼女の元へと駆け寄った。
だが、暴走する魔力の風が壁となって、俺の行く手を阻もうとする。
強い風にジャージの裾がバタバタと煽られ、目を開けているのも辛い。
『警告します。迷宮の空間限界容量が九十九パーセントを突破。このままでは、実家の概念そのものが崩壊し、次元の彼方へ消し飛びます』
足元で、強風に耐えながらモップが冷酷な事実を告げた。
次元の彼方に消し飛ぶ。
つまり、この家も、俺たちの日常も、全部なくなってしまうということだ。
「そんなこと、させるかよ……!」
俺は風に逆らい、一歩、また一歩と足を前に進めた。
視界の先には、恐怖と混乱で泣きそうになっているセレナの姿がある。
「家主、さん……! ごめんなさい、止まらないんです……! 私、どうすれば……!」
セレナの声が、風の音に掻き消されそうになりながらも、俺の耳に届いた。
彼女の青い瞳から、ポロリと涙の雫がこぼれ落ちる。
完璧な聖女でもなく、実家の最強の主婦でもない。
ただ、恋に不器用で、自分の感情を持て余して泣いている、年相応の一人の女の子。
その涙を見た瞬間、俺の頭の中にあった『告白・実行工程表』の残りカスは、完全に消し飛んだ。
計画なんていらない。
セリフのパターンなんてどうでもいい。
俺が今やるべきことは、ただ一つだ。
現場監督として、この家を守る。
そして、一人の男として、彼女を安心させる。
「逃げるな! 俺を見ろ、セレナ!」
俺の怒声に近い叫びが、暴風を切り裂いた。
セレナがビクッと肩を震わせ、顔を上げる。
俺は最後の力を振り絞り、魔力の壁を強引に突破して、玄関の上がり框へと飛び込んだ。
そして、彼女の両肩を力強く掴み、自分の方へと引き寄せた。
「あっ……」
彼女の甘い花の香りが、俺の鼻腔をいっぱいに満たす。
腕の中に収まった華奢な体は、小刻みに震えていた。
「もう大丈夫だ。俺がここにいる」
俺が低い声で告げると、セレナの目からさらに大粒の涙が溢れ出した。
『ホーム指数、臨界点に到達。……さあ、家主様。仕上げの言葉を』
モップの念話が、静かに俺の背中を押した。
周囲では、いつの間にか集まってきたリースやノア、マリアたちが、息を呑んで俺たちを見守っている。
俺は深く息を吸い込み、逃げ場のない真剣勝負の舞台――玄関のど真ん中で、彼女の目を見つめ返した。




